ウォルトンにおける想像の対象

2017/04/17追記: その後訳者の田村さんから反論をいただきました(参照)。

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

この記事はケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』という本の、ある訳注を批判することで、ウォルトン解釈を明確にすることを狙ったものだ。以下での主たる関心は、ウォルトン解釈、特に「想像の対象」という概念にある。ウォルトンのような存命の哲学者に対して解釈を云々するのもどうかとは思うのだが、正直に言って、ウォルトンの主張はあまり理解されていないように思う。主張がまともに理解されていない状況で「メイクビリーブ理論」などの名称だけが流布している状況はあまりよろしくないので、こういう記事も少しは書く意義があるだろうと考える。

なお、ウォルトンについては以前も以下のような記事を書いた。

Kendall Walton『メイクビリーブとしてのミメーシス』: 虚構性 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

想像の対象と表象の対象

Mimesis as Make-Believeの翻訳である『フィクションとは何か?』には以下のような訳注がついている。

「表象体の対象(an object of a representation)」という概念と、「想像活動のオブジェクト(an object of imagination)」という概念は異なるので、注意が必要である。想像のオブジェクトは、想像活動を展開するための物体的な手がかり、いわば想像の「依り代」とでも言えよう。ある人形がごっこ遊びの中で赤ちゃんとなっているとき、その人形は、赤ちゃんを想像する際の想像のオブジェクトである(第1章3節参照)。他方、この人形が現実のある赤ちゃんに酷似するように、その肖像として作られているとき、この人形という表象体の対象はその現実の赤ちゃんである。 訳p.28 訳注[1]

訳者である田村氏は、ウォルトンが使っている「想像のobject」には、「表象の対象object」という場合のobjectとはちがう意味があると考えているらしく、想像のobjectを「想像のオブジェクト」と訳している。

しかし、ウォルトンはここで言われているような区別はしていないし、この想像のオブジェクトの説明はかなりおかしい。区別していないというのはどういうことかというと、想像のケースでも表象のケースでも、「対象object」という語はそのごく標準的な意味、つまり「xがyの対象であるのは、yがxについてのものであるちょうどそのときである」という仕方で使用されている。これは別にウォルトンの特殊な語用などではなく、志向性が哲学で扱われる際の標準的な仕方だろう。

それぞれについて書き下せば以下のようになる*1

  • xが想像の対象であるのは、xについて想像をしているちょうどそのときである。
  • xが表象の対象であるのは、xについての表象があるちょうどそのときである。

訳者の方はおそらく、想像の対象objectに関しては、「想像の依り代」のようなもっと特殊な意味が込められていると読んだのだろう。しかし、この読みは維持できない。なお、もちろん表象と想像は別の種類のものなので、そのかぎりで表象の対象と想像の対象は異なる。それは否定しない。私が否定しているのは「想像の対象」という言葉で「想像の依り代」のような特殊なことが意味されているという主張である。

想像の対象の話はそもそもかなり難しいのだが、きちんと読めばウォルトンが一貫した立場を取っていることはわかるし、実はかなりおもしろいことを言っている。

テキスト的根拠

まず「想像の対象object of imagination」という語が、どのように導入されているかを見よう。

布で作ったお人形で遊んでいる子どもは、赤ちゃんを想像するだけではない。そのお人形が赤ちゃんだと想像しているのである。…人が想像活動をそれについて展開する事物が、想像の対象である。p.25, 訳p.25、強調引用者

想像の対象とは、想像者がそれについて想像しているところのものであるという風に導入されている*2。なお、この際、ウォルトンが人形や木の切り株のようなものだけを想像の対象に含めているわけではないことは注意しておきたい。この節(1章3節)とそのすぐ後の節(1章4節)では、自己についての想像の事例も取り上げられており、そこでは自己が想像の対象であると言われている。あるいは、ジョージ・ブッシュについて想像する場合、ブッシュが想像の対象であるという例もあげられている。われわれは、人形について想像することもあるし、自己について想像することもあるし、ブッシュについて想像することもある。この概念が捉えようとしているのは、この「Xについての想像」におけるXだ。Xについての想像とは何なのかという疑問はあるだろうが、ウォルトンはそこは明らかにしておらず、例示によって説明されているだけだ(これについては後述する)。

一方、表象の対象という語は、どのように導入されているか。

戦争と平和』はナポレオンについての小説である。…ある物は、ある表象体がその物についてのさまざまな命題を虚構として成り立たせる場合、その表象体の一つの対象となる。p.106, 訳p.106、強調引用者

表象の対象は、表象体がそれについての命題を虚構的に成り立たせるようなものとして導入されている。なお、ウォルトンの分析では、「虚構的に成り立たせる」は想像への命令として定義される(p.39, 訳p.41)*3。この定義を上の引用箇所に適用してみよう。あるものについての命題を虚構的に成り立たせるということは、それについての想像を命令することに当たる。

定義を明示的にして書くと以下のようになる。

あるものが表象体の表象の対象であるのは、表象体が、それについて想像を命令する(あるものを想像の対象としてもつように命令する)ちょうどそのときである。

つまり、きちんと読めば、表象の対象というアイデア自体が、想像の対象によって規定されていることがわかる。別の箇所では、これは明示的に書かれている(何回も出てくる)。

あるものを対象として持つとは、そのものについての虚構的真理を生み出すということであり、そのものについての想像活動を命令するということである。p.109, 訳p.110

何かを表象することは、そのものについての想像活動を命令することだからである。p.115, 訳p.115

表象がある対象をもつとき、鑑賞者は、それを想像の対象としてもつように命令される。つまり、『戦争と平和』はナポレオンについての小説であり(ナポレオンが表象の対象であり)、読者はナポレオンについて想像するよう命令される(ナポレオンを想像の対象とするように命令される)。こんな風に、「想像の対象」と「表象の対象」の明確なつながりが述べられている。

並行性の問題?

なぜ訳者の方が上記のような誤解をしたのかという理由を推測してみよう。おそらくその理由は、「小説に実在の人物や都市が登場するケース」と「ごっこ遊びで実在のものを利用するケース」が似ていないことだろう。『戦争と平和』がナポレオンについて想像させるということと、人形遊びが人形についての想像であることはどこかちがうことであるように思える。

しかし、ウォルトン両者を同じように扱っている。ここはウォルトンが過激なことを言っているのがおもしろいのであって、それを歪めるべきではない。

それが明確に見える箇所を二つ例にあげよう。

(1)3章5節では直接的に両者が並列されている。まず『キングコング』にニューヨークという実在の都市が出てくる例があげられ、これらが「作品の一つの対象とされたことの目的」は何かという疑問が提示される(p.116, 訳p.116)。要するに表象の対象はなぜ必要なのかという問いだ。そのすぐ後の段落では、「木の切り株とか、積もった雪とか、合成樹脂の人形」を想像の対象の例としてあげ、その例を使ってこの疑問に答えている。これらは興味の焦点ではないが、想像に貢献しており、それが対象をもつことの目的にあたるという答えが与えられる。ウォルトンが『キングコング』におけるニューヨークと、ごっこ遊びにおける人形を、ともに同じ意味で、表象の対象/想像の対象だと見なしているのでないかぎり、この議論は意味をなさないだろう。

(2)人形の表象対象については以下のような答えが与えられる*4

お人形は、それで遊ぶ子どもたちに赤ちゃんを想像するよう命令するだけではなく、そのお人形自身が赤ちゃんであると想像するように命令している。それゆえ、このお人形は、それ自身についての虚構的真理を生み出しており、それ自身を表象しているのである。こういうものを反射的表象体(a reflexive representation)と呼ぶことにしよう。p.117, 訳p.117

人形はそれ自身を表象の対象としてもつと言っている。『戦争と平和』との並行性がわかるように並べると、以下のようになる。

表象体 表象の対象 命令された想像の対象
戦争と平和 ナポレオン ナポレオン
人形 人形自身 人形自身

人形は、人形自身についての想像を命令するので、人形自身を表象している。しかし表象の対象とは、想像の対象として命令されたものだという定義をきちんと理解していないと、なぜ人形の表象対象が人形自身なのかはわからないだろう。ウォルトンの立場では、『戦争と平和』がナポレオンについて虚構的真理を生み出すのと、人形遊びが人形について虚構的真理を生み出すのは基本的に同じ仕方で説明される現象なのである。

不一致の問題?

しかしこの際、人形についての想像は、人形に関して、それが赤ちゃんであるという性質を付与しており、現実と異なっている。この点は、『戦争と平和』のナポレオンの例とは異なるように思われるかもしれない。もちろん『戦争と平和』のようなフィクションでは、ナポレオンは現実と異なるふるまいをするかもしれない。しかしナポレオンを犬や無機物に変えることは許されるのだろうか。

例えば、私が自分で書いた小説にナポレオンを登場させていると私自身は主張しているのだが、その小説の中の「ナポレオン」は自動車であり、特に現実のナポレオンと何の共通点もないというケースを考えてみよう。この場合、この小説はナポレオンを表象していないだろう(少なくとも表象することに失敗している)。この種の例はウォルトンも取り上げており、「表象体とその対象の間には何らかの対応がなければならない」(p.112, 訳p.112)と言っている。要するに、表象の内容は対象とある程度一致していなければならない。ウォルトンは、表象体があるものを対象としてもつための必要条件として、因果関係と、ある程度の一致の二つをあげている。

ナポレオンを自動車として表象することが不可能なのに、人形を赤ちゃんとして表象することが可能なのだとしたらそれはなぜだろう。実はこの点についても回答が与えられている。

そういうわけで、お人形は、彫像では対応関係が成り立たない多くの側面で自分自身と対応関係をもっている。お人形は自分自身と一致するという状態に随分近づいている。つまり(形式にこだわらずに言えば)、虚構的な赤ちゃんは、虚構的なコンスタンティヌスが彫像に似ているよりも、ずっと人形に似ているのである。pp.118-119, 訳p.119

人形と虚構の赤ちゃんは実はすごく似ており、両者の間には多くの側面で対応correspondanceがあると言っている*5

この答えは、ウォルトンが何を言っているのかさえ理解できれば、興味深いものだ。まずここで言われている対応とは、現実の事実と虚構的真理の間の対応だ。『戦争と平和』のナポレオンの例に戻ると、小説がナポレオンに関して虚構的に成り立たせている虚構的真理と、ナポレオンに関する現実の事実がある程度一致していなければならない。

一方、ごっこ遊びの場合、人形を抱けば、赤ちゃんを抱くことが虚構的に成り立つ。人形をなでれば、赤ちゃんをなでることが虚構的に成り立つ。ごっこ遊びにおいては、こんな風に、人形に関する事実と、赤ちゃんに関する虚構的真理の間の対応がいくつも成り立つ。

両者を並列してみよう。

表象体 現実の事実 虚構的真理
戦争と平和 ナポレオンは皇帝である, ナポレオンはロシアに遠征する, etc. ナポレオンは皇帝である, ナポレオンはロシアに遠征する, etc.
人形 子どもは人形の頭をなでる, 子どもは人形を抱く, etc. 子どもは赤ちゃんの頭をなでる, 子どもは赤ちゃんを抱く, etc.

人形の方は、ごっこ遊びの参加者の行為に関する事実であるが、確かに対応が成り立っている。ウォルトンは、行為に関する事実も虚構的真理(虚構性)に含めるので、どちらのケースでも現実の事実と虚構的真理の間の対応が成り立つのだ。

改めて想像の対象とは何か

最初の方で説明したように、ウォルトンは「Xについて想像する」とは何をすることなのか分析していない。しかし上記のような説明から、ウォルトンが「Xについての想像」をどのようなものとして捉えているかはある程度見えてくるだろう。まずXについての想像は、Xの姿をある程度歪めてもよい。人形が赤ちゃんであると想像することもできる。

一方で、Xに関する現実の事実と、Xについて想像された内容の間には、多くの対応が成り立っていなければならない。しかしこの対応は、行為を通じたものであってもよい。例えば、人形をなでることで、赤ちゃんをなでることを想像するという形でもよい。ごっこ遊びで使用される想像の対象に関しては、この種の行為を通じた対応が成り立っていることが多い。

この種の行為を通じた対応は、小説などにはあまり見られない事例ではあるだろう。しかし上記のように一般化し、一見すると見えづらい両者の形式的類似を明らかにすることで、それ自身が自伝であると想像させる小説といった事例も、同じように説明することが可能になる(3章6節)。これは、この『フィクションとは何か』という本のおもしろいところだろう。

*1:なお、以下の定義は、表象の対象に関してはーー基本的にはこの路線であると言えるもののーーあまり正確ではない。なぜならウォルトンのプロジェクトは、表象一般の理論という側面をもっており、表象の概念は、想像や虚構性といった概念によって説明される。従って、定義の説明項には「表象」という語は現われない。

*2:ちなみに、ウォルトンは想像の対象とは別に、想像の小道具という概念も導入しており、これは「依り代」に近い意味かもしれないが、この概念と「想像の対象」の概念ははっきり区別されている。

*3:「虚構的に成り立たせる」の原語はmake it fictionalであり、「虚構的にする」が直訳だが、ここは訳書に従う。

*4:先ほどの訳注では、人形の例があげられているにも関わらず、なぜかこの箇所を無視している。

*5:なお、この際、人形は、虚構において赤ちゃんなので、人形はそれ自身と対応しているという変な言い方にならざるをえないことに注意。