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Kendall Walton「虚構性と想像」

fiction

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, ExistenceIn Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence


上の論文集に入っているFictionality and Imaginationを読んだ。
この論文でウォルトンは、かつて提示した立場の一部を撤回している。わりと大事な論文だ。
ウォルトンはかつて『ごっこ遊びとしてのミメーシス』で、虚構性(虚構的真理)の概念を想像への指図として定義した。例えば、「シャーロック・ホームズはロンドンに住んでいる」というのは、ホームズ小説を読む人が参加するごっこ遊びのゲームで、そう想像しなければならないこと、そう仮定しなければならないことだ。

この論文での定式化では、

ある命題が、ある特定の作品(の世界)Wで虚構的であるのは、Wの完全な鑑賞がその命題の想像を要求するちょうどそのときである。

これは、虚構性を想像の概念に還元するというのがウォルトンの公式の説明だった。ところが、そういうわけにはいかない。
実際は、鑑賞するときに想像することが必要な内容ではあるが、虚構的でない内容があるからだ。
ウォルトンはいくつも例をあげてこれを説明し、結局想像すべき内容から虚構的な内容だけをうまく取り出す方法がないことを認めている。
ウォルトンがあげている反例は、例えばメタフィクションや絵画における錯覚の事例や語り手の存在に関わるものだ。


例えば、これは正確にウォルトンがあげている例ではないが、ひとつだけ紹介しよう。オペラやミュージカルの登場人物は歌を歌う。観客はこれを見る際、ある意味では登場人物が歌っていることを想像しなければならない。ところが、登場人物はストーリー上では歌っていないことになっている。
つまり、作品に関係する想像の世界は、「登場人物が歌っている想像の世界」と「登場人物が歌っていない想像の世界」に別れる。ウォルトンは元々作品の公式の世界と、観客によって異なるゲーム世界を区別しており、この歌の例もそれに近いが、この論文では、世界はもっともっとたくさんに分裂するかもしれないことも認めている。


上のような事例の問題は、「登場人物が歌っている世界」もある意味では作品が想像するよう求めるものであることだ。しかし作品が想像するよう求め、しかも互いに両立しない複数の内容があるなら、そのうちのどれが真の虚構的内容であるかを決めるには、想像への指図以上の何かに頼らなければならない。想像への指図は、必要条件ではあっても十分条件ではない。かっこよく言うと、いくつも分裂した想像の世界から、ただ一つの虚構世界だけを抽出するための何かが無ければならない。
ウォルトンはここで、自分はそれが何であるかは知らないし、虚構性は原始概念として扱わざるをえないとしている。



ちなみに!私はこの論文を読む前から、ウォルトンが虚構性を原始概念として扱ってる問題には気づいていたし、以下のエントリでも指摘しているぜ。
(自慢)

Kendall Walton『メイクビリーブとしてのミメーシス』: 虚構性 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ