以前このブログで『フィクションとは何かMimesis as Make-Believe』の訳注を批判する記事を書いたところ、なんと訳者本人から、反論の論文をいただいた。
以前のエントリ: ウォルトンにおける想像の対象
反論論文: 田村均, 事物と私たちの想像論的なかかわりについて : ケンダル・ウォルトンの「想像活動のオブジェクト」の概念をめぐって
私がのろのろしていたところ、フットワークの軽い松永伸司、シノハラユウキの二人がすでにリアクションの記事を書いてしまった。
- 松永伸司: ウォルトンの「想像の対象」と「表象の対象」
- シノハラユウキ: ウォルトンにおける想像のobjectについて
田村・松永ともに私の解釈とは食いちがう部分があるので、以下松永解釈も適宜参照しつつ、田村論文の反論に答えていきたい(シノハラは、両者の意見にそれぞれ部分的に賛成ということだと理解している)。
訳者の田村氏には、ぶしつけな記事に対し、丁寧な反論をいただいたことを感謝する。依然として反論はあるが、論文内で提示された問題は、確かに興味深く、難しいものだった。
もともと私の問題意識として、ウォルトン解釈についてはもっと議論があってもよいのではないかという思いもあったので、議論が出てきたことは素直にうれしい。ウォルトンのMimesis as Make-Believe(以下MMBと呼ぶ)は、歴史になるにはまだ早い本ではあるが、少なくともフィクションの哲学という分野に関して言えば、古典と言ってさしつかえない地位を築いている。また、ウォルトンの文章は一見平易に書いてあるので、とっつきやすく思えるが、その立場は実際にはかなり込み入っており、相当に難しい*1。私自身は、とにかく、業界全体的に解釈のレベルがあがってくれればうれしい。
あとはまあ今さらではあるが、森さんの言葉を引用しておく。
誤訳の指摘ってのは多分に「岡目八目」的なところがあるので、その分差っ引いて理解して下さい。訳者の努力に比べれば、貢献度は非常に些細なものです。偉いのは訳者。
1. 論点
争点は、ウォルトンの「想像の対象/想像活動のobject/objects of imagining」および「表象の対象/表象体のobject/objects of representation」という概念の解釈にある*2。
はじめにひとつ断わっておきたいが(誤解している人もいないと思うが念のため)、私は「想像の対象」と「表象の対象」がまったく同じ意味だと言っているわけではない。
前回の記事で書いたのは、主に以下のような内容だった。
- 「対象」という語が、両者の間で異なる意味で使用されているわけではない。
- 「表象の対象」という概念は、「想像の対象」という概念を使って規定されている(表象体が、これを想像の対象とせよと命令しているもの = 表象の対象)*3
- 「表象の対象」と「想像の対象」の実例は重なっている*4。
以下論点になっているウォルトンの主張を書きだしていく。これらの位置づけはともかく、これらの内容がMMBに少なくとも「書いて」あることまでは認めてもらえると思う。
1a. 想像の対象と「について想像」
ある人の想像の対象とは、その人がそれについて想像しているものである。
布で作ったお人形で遊んでいる子どもは、赤ちゃんを想像するだけではない。そのお人形が赤ちゃんだと想像しているのである。…人が想像活動をそれについて展開する事物が、想像の対象である。MMB, p.25, 訳p.25
1b. 想像の対象は主語の位置にある
私たちは、切り株について、それが熊であると想像することができる。田村論文に端的にまとまっていたので以下に引用する。
現実世界のその事物は、現実と虚構という二つの世界を跨いで、そこにある同じそのそれとして指示され、虚構世界においては、現実世界で備えていない想像上の属性をしばしば付与される。お人形は赤ちゃんであり、切り株はクマであり、ブッシュは賭け屋であり、身近な都市がエルサレムである。田村2017, p.15
この性質は、自然言語で表現することがめんどうであり、理解が難しくもあり、この見解の理解で毎度混乱するので、以下何通りかの方法で書いてみよう*5。
(1b1)例えば、太郎が、切り株についてそれが熊であると想像しているという事態は、以下のように書ける。
太郎は、xが熊であると想像している。(ここでxは現実に切り株であるそれである)
(1b2)太郎の想像の内容を、ラッセル命題(個体と性質の対)であらわすと以下のようになる。
〈a, 熊性〉 ※a = 現実に切り株であるそれ
(1b3)太郎が切り株についてpと想像しているとき、現実に切り株であるそれは、pの主語の位置に含まれる。
(1b4)現実に切り株であるそれは、想像において熊であるそれと数的に同一の個体である。
なお、私が以上をウォルトンの見解と見なすテキスト的根拠は、「布で作ったお人形で遊んでいる子どもは、赤ちゃんを想像するだけではない。そのお人形が赤ちゃんだと想像しているのである」といった記述だ。
こうした記述を以上のような仕方以外で理解するのは難しいと思う。仮に「現実に切り株であるそれ」と、「想像において熊であるそれ(想像の主語位置を占めるもの)」が同一ではないと仮定してみよう。この場合、「想像において熊であるそれ」は、切り株とは別の個体であるか、現実に存在しないかいずれかだろう。しかし前者の場合、太郎は切り株について想像しているわけではなく、別のものについて想像していることになってしまう。後者の場合、太郎は何ものについても想像していないことになるだろう。このいずれの場合も、「切り株が熊であると想像している」とは言えないだろう。もし仮にそういう立場を取るのであれば、「現実の事物についての想像」なるものがありえることをむしろ否定すべきだろう。
1c. 想像の対象は、想像に生気を与える
現実のものについて想像することで、想像に実体性が与えられる。(以下、「実体性を与える」「生気を与える」などは特に区別せずに使用する)
想像を促すだけではなく、想像の対象objectとしての切り株の役割は、想像するという経験にどのように貢献しているのか。直観的な解答は、切り株は想像上のクマに、言わば「実体を与える」ということである。MMB, 訳p.26
1d. 表象の対象と「について想像」
表象の対象とは、表象が、それについての想像を命令するものである。表象の対象とは、表象がそれについて虚構的真理を成り立たせるものであるという言い方もなされる。
『戦争と平和』はナポレオンについての小説である。…ある物は、ある表象体がその物についてのさまざまな命題を虚構として成り立たせる場合、その表象体の一つの対象となる。MMB, p.106, 訳p.106
あるものを対象として持つとは、そのものについての虚構的真理を生み出すということであり、そのものについての想像活動を命令するということである。MMB, p.109, 訳p.110
1-2. 解釈
それぞれについて、まず私の解釈を述べる。
- 1aが「想像の対象」の定義である。
- 1bは1aと互換的な規定として使用されている(つまり、ほぼ同じことを言っている、ないし1aをもっと詳しく説明している)。
- 1cは、「想像の対象」の定義ではないが、ウォルトンが想像の対象について述べていることではある*6。
- 1dは、「表象の対象」の定義であり、想像の対象も表象の対象も、どちらも「現実にあるものについての想像」によって規定されている。
田村は、1aや1bの形で想像の対象が定義されていることは認めているように思われる。
私の解釈とはっきり食いちがっているのは、以下の点だと思う。
- 「対象object」「についての想像imagining about」という語は、1a(想像の対象)と1d(表象の対象)で異なる意味で使用されている。
- 1dは「対象」「についての想像」という語の「標準的な意味」で使用されているが、1aの「対象」「についての想像」は、「ウォルトン的な意味」で使用されている。
前回のエントリでは、主に「想像の対象」の定義(1a)と「表象の対象」の定義(1d)を主張した。両者の間で、「対象object」という語が二つの異なった意味で使用されているわけではないことを確認するためには、両者がともに「現実にあるものについての想像」によって規定されていることを示せば十分だろうと思ったからだ。しかし、田村の考えは、「についての想像」も、二つの異なった意味で使用されているということだったようだ。
田村が標準的な意味とウォルトン的な意味をそれぞれどのような意味だと捉えているのかは、私はまだ明確につかめていない。しかし、少なくとも「ウォルトン的な意味」の方には、想像の活性化(1c)の意味が込められているということは強調されている。おそらく、「ウォルトン的」な「について想像」は、「標準的」な「について想像」にくわえて、現実の事物によって想像が活性化されているという条件が追加されているのかもしれない。
2. 反論のモチベーション
田村があげている問題については後で触れることにして、なぜ上記のような解釈に反対するのかを先に述べる。
まず一般論として、著者が特に何のことわりもなく、同じ本の中で同じ語を使っている以上、よっぽどの理由がないかぎり、そこに異なる意味を割り当てるべきではないと思う。しかも、「についての想像」は、定義を与えられたテクニカルタームではなく、テクニカルタームを説明するために使用されている未定義概念だ。未定義概念である以上、われわれは、日常概念の延長線上で理解するしかない。その場面で、何のことわりもなく、「についての想像」という表現が複数の意味で使用されているというのは、あまりうれしくない解釈だ。
田村は「想像に生気を与える」という含意を強調しているが、私には、その点で想像の対象と表象の対象を区別することは難しいように思われる。ウォルトンが「現実の事物によって想像に実体性が与えられる」という現象に関心をもっているのは確かであるが、むしろ表象の対象に関しても想像に生気を与える側面を強調しているように見えるからだ。
また、これが一番の理由だが、テキスト上でも両者は並列されている。前回のエントリでもいくつかあげたが、他にも、以下のような箇所は、両者を同一視しているように見える。
というのも、何かを表象することは、そのものについての想像活動を命令することだからである; 何ものかについて——ジョージ・ブッシュについて、フランス革命について、自己について——の想像活動に従事することは、そのものについての自分の理解を深めるよいやり方である。p.115, 訳pp.115-116
一文目の「について想像」は、表象の対象の定義の方だ。しかし、次の文では、ジョージ・ブッシュや自己についての想像(1章における想像の対象の例)に言及しており、両者はセミコロンで並列されている。
3. 田村の反例
次に田村が反例としてあげた俳優の事例を取り上げる。最初にことわっておくと、俳優の事例は確かに難しい。この点は私も解釈に悩んでいる。
田村は映画と演劇の二つの例をあげているが、映画の例だけあげよう。映画の例としてあげられているのは、『ワイアット・アープ』という映画だ。この映画でケヴィン・コスナーは、歴史上の実在の人物であるワイアットアープを演じる。
議論を私なりの仕方で再構成する。
- (K1)映画『ワイアット・アープ』の鑑賞者は、ケヴィン・コスナーについて想像する。ケヴィン・コスナーは鑑賞者の想像の対象である。
- ウォルトンは、俳優を想像の対象と見なしているのでこれは成り立つだろう(1章3節)。
- (K2)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ケヴィン・コスナーについての想像を命令する。
- これはウォルトンが明確に書いていることではない。しかし、映画をまっとうに鑑賞するためには、(K1)のような想像をしなければならないことは確かであり、また映画は慣習上、この種の想像を要求しているように思われる。
- (K3)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ケヴィン・コスナーについての虚構的真理を成り立たせる。
- これは虚構的真理のウォルトンの定義と(K2)から帰結する。
- (K4)ケヴィン・コスナーは、映画『ワイアット・アープ』の表象の対象である。
- これは表象の対象の定義と(K2)(K3)から帰結する。
- (W1)ワイアット・アープは、映画『ワイアット・アープ』の表象の対象である。
- フィクションに歴史上の人物が登場するケースは、表象の対象の典型例なのでこれも成り立つだろう(3章1節)。
- (W2)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ワイアット・アープについての虚構的真理を成り立たせる。
- 表象の対象の定義と(W1)から帰結する。
- (W3)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ワイアット・アープについての想像を命令する。
- 虚構的真理の定義と(W2)から帰結する。
- (W4)映画『ワイアット・アープ』の鑑賞者は、ワイアット・アープについて想像する。ワイアット・アープは鑑賞者の想像の対象である。
- (W3)の想像への命令を鑑賞者が実行すればこれは成り立つだろう。
まずすぐに指摘できる帰結は以下の二つだ。
- 二つの想像の対象の問題: (K1)と(W4)より、ケヴィン・コスナーとワイアット・アープの両方が鑑賞者の想像の対象になる。
- 二つの表象の対象の問題: (K4)と(W1)より、ケヴィン・コスナーとワイアット・アープの両方が『ワイアット・アープ』の表象の対象になる。
また、「二つの対象」の問題からは、「二つの内容」の問題も帰結するように思える。例として、『ワイアット・アープ』にワイアット・アープが馬に乗るシーンがあるとしよう(私は未見だが)。もし想像の対象が二つあるなら、この場面で鑑賞者は以下の二つの想像をしていることになるだろう。これを「二つの想像内容の問題」と呼ぶことにする。
- ケヴィン・コスナーが馬に乗る
- ワイアット・アープが馬に乗る
さらに、もし表象の対象が二つあるなら、この映画の虚構世界には、以下の二つの虚構的真理が含まれることになりそうだ。これを「二つの虚構的真理の問題」と呼ぶことにする。
- ケヴィン・コスナーが馬に乗る
- ワイアット・アープが馬に乗る
おそらく、この最後の帰結が一番奇妙な感じがするだろう。田村、松永はそれぞれにこれらの帰結を(部分的に)避けようとしている。このため、私自身の考えは後にして、まず、他の人の解決を見よう。
4. 解決案の候補
田村の解決は、おそらく以下のようなものだろうと思う。
- (K3)(K4)(W4)は成り立たない。「表象の対象」の定義に現われる「についての想像」は、(K1)(K2)に現われる「についての想像」とは意味がちがうので、(K3)(K4)のように推論していくことはできない。
この解釈に同意できない理由はすでに述べた。しかし、もう一点大きな問題がある。そもそも田村の解釈をとってもこの問題は解決しないのではないだろうか。なぜなら、田村は、表象の対象と想像の対象が、時には一致してしまうことを認めているからだ。つねに一致するわけではなくても、一致するケースがいくつかあれば、結局その事例で上記の問題が成り立ってしまうのではないだろうか。
田村は、『キングコング』におけるニューヨークが「ウォルトン的な意味での想像活動のobject」であることを認めている(田村2017, p.17)。『キングコング』のニューヨークは、想像の対象であると同時に表象の対象である。実際、このニューヨークの事例をそう解釈しないのは難しいだろう。しかし、そうだとすると、これと同様の事例が歴史上の人物についても成立しうるだろう。都市に関してそのようなケースがあることを認めた上で、人に関してはありえないと考える理由はなさそうだ。
議論の方便のため、ワイアット・アープがその例だとしてみよう。『ワイアット・アープ』は、ワイアット・アープというよく知られた歴史上の人物を扱うことで、鑑賞者の想像に実体性を与えており、ワイアット・アープを「ウォルトン的な意味での想像活動のobject」とするのかもしれない。この場合『ワイアット・アープ』は結局二つの想像の対象をもつことになってしまうように思われる*7。
つまり、この解釈をとった場合、認められるのはせいぜい歴史上の人物が登場する映画すべてについて上記の問題が起きるわけではないということだ。しかし、たまにはそういう問題が起きうることを認めなければならないのではないか。
一方、松永の解決は以下のようなものだろう。
- (K1)-(K4)から(W1)-(W4)はすべて成り立つ。しかし、「二つの虚構的真理の問題」は成り立たない。
ある実在物Aについての虚構的真理は〈Aについてpという命題がフィクショナルであること〉であって、Aについてのなんらかの命題が当の虚構世界の内部の事実である必要は必ずしもない(MM p.107)。『ハムレット』の世界にオリヴィエ卿が存在しなくても、『ワイアット・アープ』の世界にケヴィン・コスナーが存在しなくても、オリヴィエ卿やケヴィン・コスナーについての虚構的真理は成立しうる。たとえば、画面に映ったケヴィン・コスナーを指して「彼がワイアット・アープだ」と言うことは、『ワイアット・アープ』の公式のごっこにおいて適切なふるまいだろう。
どちらかと言えば私の解釈は松永に近いが、この部分は同意できない。ウォルトンは、少なくとも現実の事物については、「想像の対象は主語の位置にある」と認めているように思えるからだ*8。「Aについてpという命題がフィクショナルである」なら、Aはpの主語位置に含まれるだろう。
参照箇所にあげられているp.107で例外とされているのは、あくまで実在しないもののケースだ。そこでは「についてのabout」という語は引用符にくくられており、これはde dictoな虚構的真理だと言われている。今考慮しているのは、現実の事物についてのde re想像なので、そこの記述をこの事例に当てはめるのは難しいと思う。
5. 解釈
上記の問題について、私自身の解釈は以下のようなものだ。残念ながらあまりはっきりした解決ではないし、推測もかなり含まれている。
- (K1)(W1)(W2)(W3)(W4)は成り立つ。
- (K2)(K3)(K4)は何らかの理由で成り立たないか、ウォルトン自身が気がついていない。
まず、(K1)(W1)(W2)(W3)(W4)が成り立つので、「二つの想像の対象の問題」と「二つの想像内容の問題」は帰結する。これに関しては、私自身は大きな問題だと思っていないし、ウォルトン自身は、はっきり書いてはいないが、認めるのではないかと考える。一方、「二つの表象の対象の問題」と「二つの虚構的真理の問題」については、奇妙である上に、ウォルトンがこれを認めている可能性は低いと思う。
順番に説明しよう。まず、「二つの想像の対象の問題」と「二つの想像内容の問題」について。『ワイアット・アープ』の鑑賞者が、ケヴィン・コスナーとワイアット・アープの両方について想像しているというのは、単純に正しい帰結ではないかと思う。鑑賞者は実際ケヴィン・コスナーについても想像しているし、ワイアット・アープについても想像しているだろう。もし鑑賞者が単一の思考でこの両者について想像していると考えると奇妙かもしれないが、そんな風に考える必要もない。人間は、複数のレベルの思考を同時に行なうことができる。
MMBの中で、いくらかこれに似た事例として思いあたるのは、1章4節の「自分がナポレオンであると想像する」例だ。ウォルトンは、自分がナポレオンであると想像する例を文字通りに想像可能なものとしておおむね認めているが、どうしてもこれを認めたくない人のために、次のような選択肢も用意している。「ジョイスは(自分自身が)サイを見ていると想像する。そして、この一人称の自己想像を手段として、ジョイスはナポレオンがサイを見ていると想像する」(p.34, 訳p.34)。
この二つの選択肢は、俳優の事例にも適用できそうだ。鑑賞者はケヴィン・コスナーが文字通りにワイアット・アープと同一であると想像するのかもしれない。あるいは、鑑賞者はケヴィン・コスナーが馬に乗ると想像し、この想像を手段・媒介として、ワイアット・アープが馬に乗るという別の想像に従事するのかもしれない。いずれの場合でも、両方が想像の対象であると考えることができそうだ。特に後者は俳優の演技に関して自然な理解に思える。
次に「二つの表象の対象の問題」と「二つの虚構的真理の問題」について。私が最大の問題だと思うのは、ウォルトンがこれを認めているというのがあまりもっともらしくないことだ。ウォルトンがこれを認めているという解釈に反するテキストはいくつかある。もし、俳優が一般に表象の対象でもあるのだとすると、定義上、ほとんどの俳優は反射的表象になるだろう。しかしウォルトンが反射的表象の例にあげているのは、レーガンの役を演ずるレーガンだ(p.211, 訳p.212)。「レーガンが俳優であるという事実は、レーガンを表象体の対象とすることにほとんど関係がない」とも言われている(p.212, 訳p.212)。俳優一般を反射的表象だと考えているようにはとても見えない。また別の箇所では、俳優は「演技によって虚構的真理を生成する」とも言っているが(p.243, 訳p.244)、俳優についての虚構的真理を生成するという言い方はしていない。
また、「(K2)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ケヴィン・コスナーについての想像を命令する」は、成り立ちそうに思われるのだが、これに相当する内容がどこにも書かれていないことも気になっている。ただの推測だが、ウォルトンは単にこれに気がついていないのかもしれない。あるいは、私にはわからない何らかの理由で(K2)は成り立たないと思っているのかもしれない。
いずれにせよ、ウォルトンは、結局2015年のFictionality and Imagination(In Other Shoes収録)の中で、虚構的真理を想像への命令によって定義することをあきらめている。そこでは、想像への命令は、虚構的真理の必要条件だが、十分条件ではないという風に立場が弱められる。つまり、ウォルトンの現在の立場では、(K2)から(K3)への推論を受け入れる必要はない。想像への命令を虚構的真理の必要十分条件として認めてしまうと他にもいくつか反例が出てくるので、これもそのひとつなのかもしれない。
これは本当にただの当て推量だが、MMBの時点では、ウォルトンは想像への命令を、暗黙的な仕方でかなり制限していたのではないかという気もする。つまり、「ケヴィン・コスナーについての虚構的真理なんて無いんだから、ケヴィン・コスナーについて想像せよという命令はないんだ」といった、論点先取に当たるような想定をしていたかもしれない。しかし、論点先取でない形で想像への命令をうまく定義できないことがわかったので、上記の定義を撤回したのかもしれない。
いずれにせよ、この部分の解釈は本当によくわからない。
*1:私を含め、議論した人たちはおそらく皆このことを実感したと思うが。
*2:objectの訳が争点のひとつなので中立的な表現にした方がよいと思うが、煩雑になるので以下引用以外は「想像の対象」「表象の対象」で統一させてもらう。
*3:表象を媒介させずに現実の対象について想像する状況や、表象体は想像への命令を行なっているが鑑賞者が実行しない状況などを考えれば、「表象の対象ではないが、想像の対象であるもの」やその逆は想定できる。
*4:想像の対象の典型例は人形・切り株などであり、表象の対象の典型例はフィクションに実在の人や都市が登場するケースだが、人形が表象の対象になることもあるし、フィクションに都市が出てくるケースが想像の対象になる場合もある。
*5:あとでこの性質を使うので丁寧に説明している。おそらく、田村と私はここの解釈は一致しているが、松永とは食いちがっている。
*6:定義ではないというのは、定義からトリビアルに出てくるようなタイプの主張ではないということ。
*7:さらに、「二つの表象対象の問題」「二つの虚構的真理の問題」が成立するためには、『ワイアット・アープ』において、ケヴィン・コスナーを「標準的な意味での想像活動のobject」とするような想像への命令も成り立たなければならない。田村の解釈でこれが成り立つのかどうか私はよくわかっていない。ウォルトン的「について想像」に従事している人が、標準的な意味での「について想像」にも従事しているのだとすれば、成り立つだろう。そして、ウォルトン的「について想像」が標準的「について想像」に条件を付け加えたものなのだとすれば、そうなるだろう。
*8:細かいことを言えば、先に述べたのは想像についての話で、ここは虚構的真理の話だ。しかし、同じような話は虚構的真理についてもできるだろう。