David Velleman「信念の目的について」

Velleman, David (2000). On the aim of belief. In The Possibility of Practical Reason. Oxford University Press 244--81.

すでに正月って感じでもないですが、おめでとうございます。新年なので信念の目的について考えていました。

  • 真理志向性とは何か?
    • 真理志向性は何ではないか: 真と信じる
    • 真理志向性は何ではないか: 真と見なす
    • 真理志向性とは何か
    • 目的はどのように実現されるか
  • 信念を動機づけ役割で定義できないか?
    • 想像に動機づけられた行動: メイクビリーブ
    • 想像に動機づけられた行動: ひとりごと
    • 想像に動機づけられた行動: 精神分析の例
    • 想像に動機づけられた行動: 表出行為
    • 想像と信念の動機づけのちがい
    • なぜ動機づけによる説明が正しく見えるのか
    • なぜ動機づけによる説明は誤るのか
  • 反論に応える
    • 真理は目的でなければならないのか?
    • 信念はどれも目的をもたねばならないのか?

信念は真理志向的な態度であると言われる。真理を目的とする態度という形で、信念を定義することもできそうだ。ベルマンのこの論文はこの方向を追求したもの。

ただし、この「真理志向性」の意味は捉えがたい。例えば、「xがpと信じているのは、xがpを真と見なすちょうどそのときである」という定義を考えよう。この定義はうまくいかない。この定義だと、仮定や想像も含まれてしまう。「天気が晴れだと仮定する」ことは、天気が晴れであるかのようにふるまい、天気が晴れであるかのように語り、天気が晴れであることが真であると見なすことを含むが、信念ではない。

信念、想像、仮定などは認知的cognitive態度であり、欲求などは動能的conative態度と言われることがある。この「真と見なす」はあらゆる認知的態度に共通するものだ。また、信念、想像、仮定などをすべてまとめて「受容acceptance」という態度に分類することがある。「真と見なす」だけだと受容の定義にしかなっていない。

信念の真理志向性はもっと強いものでなければならない。ベルマンによれば、信念は「それが本当に真であるときだけ真と見なす」態度である*1

後半は、行為に導くという動機づけの機能によって信念を他の態度から区別しようという提案を批判している。なぜこれがうまくいかないかというと、ごっこ遊びの例などに見られるように、想像もまた行為を動機づけるからだ。

想像も、もしそれが真であれば望ましいであろう行為を動機づける。しかし想像と信念の動機づけを区別しようとすると、「本当に真であるときだけ反応するような動機づけ」などのような形で区別するしかなく、結局暗黙のうちに真理志向性を導入せざるをえない。

ちなみにベルマンはウォルトンをかなり詳細に引きながら想像と信念の比較をやっており、この論文はメイクビリーブ論に興味ある人にもおすすめできる。ウォルトンは、『ミメーシスとしてのメイクビリーブ』の一箇所(p.41)で、「信念が真理を目指すように、想像は虚構性を目指す」と言っており、信念の真理志向性と対になるような形で想像を特徴づけている。ベルマンはその辺りも細かく指摘しているのだが、ここは個人的にはかなり興味深い。

ちなみに後半では、フロイトのいう幻想をメイクビリーブとして読むような不思議なこともやっており、ここは私はよくわからないのだが、興味ある人はいるかもしれない。

*1:これも問題ある気はするけど。