Jonathan Ichikawaの博論をちょっとずつ読んでいる。
以前読んだ思考実験と「フィクションにおける真」の話がもう少し詳細に書かれていたので軽くまとめておく。難しかったので一部だけ。
https://rucore.libraries.rutgers.edu/rutgers-lib/24569/
以前のエントリ
Jonathan Ichikawa「思考実験の直観とフィクションにおける真」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
- 1. 序
- 2. ウィリアムソンの議論
- 3. ウィリアムソンの解釈の懸念
- 4. 「この」ゲティア推論
- 5. フィクションにおける真
- 6. フィクションにおける真から命題の理解へ
- 7. 思考実験直観の心理学
- 8. アプリオリ性と可能性
- 9. 概念役割、意味、正当化
- 10. 近い世界と遠い世界の真理を追跡する
- 11. 知識と必然性
- 12. 直観とアプリオリ性
- 13. 結論
以前読んだ定式化では、「フィクションにおける真」が思考実験の論理構造の定式化の中にそのまま登場していたが、ここではテキストから命題の集合を選び出す働きにとどまっている。
というのは、思考実験は現実のエピソードでもかまわないため、「フィクションにおける真」が定式化の中に登場するとまずいらしい。
そもそも「フィクションにおける真」とはどんな問題だったかというと、フィクションのテキストには、書いてないけど正しいこと、書いてあるけど正しくないことがある。前者の例は「書いてはいないけど、多分ホームズの腕は二本ある」とか、後者の例は信頼できない語り手など。
Ichikawaによれば、これと同様の補完は思考実験の場合も働く。
思考実験の記述が与えるのは、
「テキストに書いてあること」+「適切なフィクション解釈によって付け足されること」
といった命題の集合になる。
(後者は、「書いてないけど手は二つある」とか、そういった補完を行い、おかしな解釈を除外するために必要になる)
思考実験のテキストを読んだ人は、フィクションの解釈手順に従って解釈を行い、上記のような命題の集合を選び出し、
「なるほど、このストーリーは可能だ」
「そしてこのストーリーが正しければ、正当化された真なる信念を持ちながら、知識でないものがあることになる」
などと判断をする。
なお、Ichikawaはフィクションにおける真を合わせたものが、「ストーリー」だとみなしているようだが、ここは疑問の余地があると思う。
また、思考実験の判断に使われるのは、日常的な概念の適用能力と同じものとされる。そもそも何らかの知識を持っているためには、私たちは一定まともな概念適用能力を持っていなければならない。そして、この概念適用能力は、想像上のケースにも適用可能なものだろうとされる。
よくある「分節化されない認知リソース」に訴えて思考実験の認知的価値を説明する議論のようだが、概念運用能力に注目するところがちょっと独特な感じ。