Kendall Walton『メイクビリーブとしてのミメーシス』: 虚構性

Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational ArtsMimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts

最近ウォルトンをまた読んでいる。ウォルトンのいうメイクビリーブ理論ってごちゃごちゃしていてわかりにくいなと思っていたが、メイクビリーブ理論は、虚構性[fictionality]の概念を中心にまとめられるべきだろうという思いつきをえたのでまとめておく。


『メイクビリーブとしてのミメーシス』はフィクション論の古典で、ウォルトンは、この中で、子どものごっこ遊び(メイクビリーブゲーム)をモデルに、フィクションと表象を考え直すような野心的なプロジェクトを掲げている。メイクビリーブ理論によれば、フィクションはごっこ遊びのゲームであり、それだけではなく、表象芸術はどれもフィクションであり、ごっこ遊びのゲームだ。そして、ウォルトンのメイクビリーブ理論で中心的な役割を果たすのが虚構性の概念だ。ウォルトンの主張は、表象芸術の中心にある概念は虚構性であるという風にまとめられると思う。

虚構性とは何か

ウォルトンが虚構性と呼ぶのは、それ以前から使用されている「虚構的真」とか「ある虚構世界において真である」の概念に近い。例えば、『ガリバー旅行記』ではガリバーが小人の国を訪れることが虚構的である。ただ、ウォルトンの虚構性の概念は普通に言う「虚構的真」よりもずっと広い。普通の「虚構的真」の概念はフィクションの内容に対してのみ適用されるが、ウォルトンの虚構性は、鑑賞者の反応や態度や行為にも適用される。


まず虚構性は、真理のように、命題の性質とされる(pp.35-36)。pが何らかの命題であるとき、「pが虚構的である」とか「虚構的にp」という形で命題を修飾する。虚構的にpであるとき、多くの場合、pは偽である(が、真であってもいい)。
ウォルトンは子どものごっこ遊びをモデルに虚構性を考える。「虚構的にp」とは、直観的には、「このゲームの中ではpということになっているよ」ということだ。
例えば、友達と森の中を歩きながら、切り株を見つけるたびに、「熊だ! 隠れろ!」というゲームをやっていたとしよう。このゲームの中では、切り株が目の前にあることは、虚構的に熊が目の前にいることだ。切り株に触れることは、虚構的に熊に触れることだ。この例でわかるように、それは単にフィクションを語る言語行為に適用されるだけではない。おおよそあらゆる行為、経験、事実に適用されうる。


虚構性の概念は、メイクビリーブ理論の中心にあるもので、メイクビリーブゲームの定義も、「何らかの命題を虚構的にするゲーム」とすることもできるだろう。ウォルトンが明示的にそう定義している箇所は見つけられなかったが、何かがメイクビリーブであると論じる時、ウォルトンが実際にやっている議論は、その経験が虚構性を含むという議論だ。


正式な分析では、虚構性は、指図[prescription]された想像として分析される(p.39)。ある文脈でpが虚構的であるとは、その文脈でpと想像することになっているということ。実際に想像される必要は必ずしもなく、「(関連する文脈で)もし仮に聞かれれば、想像されるべきこと」が虚構的だ(p.40)。例えば、先ほどの切り株のゲームで、背後に誰も気づいていない切り株があれば、虚構的に、背後に誰も気づいていない熊がいる。

想像と虚構性

また、ウォルトンはおもしろいことを言っていて、想像と虚構性の関係は、信念と真理の関係に似ている。信念が真理を目指すように、想像は虚構性を目指す(p.41)。真なる命題とは、信じるべき命題であり、虚構的な命題とは、想像すべき命題のことだ。
このアナロジーを押し進めて、次のように言うことができるかもしれない。信念とは、何かを真であるとする精神状態である。一方、想像とは、何かを虚構的であるとする精神状態であると。しかし、この分析は無理だ。なぜかというと、虚構性の概念は想像によって分析されるからだ。虚構性が想像によって定義されるのであって逆ではない。そもそも真理のような馴染みある概念と違い、虚構性のようなテクニカルな概念で分析を与えようとすること自体転倒している。


指図された想像という定義に見られるように、虚構性の主要な構成要素は規範(指図)と想像の二つだ。想像を命じる規則があること、および想像の経験があることがその中心的な構成要素にあたる。
従って、何かが虚構的であるかを判断する際には、次の二つのことが示されなければならないはずだ。

  • 想像を命じるルールがある。
  • ルールに従って想像する経験がある。

しかし、ウォルトン自身がこれをきちんとやっているかというと大変怪しい。特に、想像という精神状態をどう捉えるかがかなりぶれているように見える。先にも述べたように、ウォルトンは、「想像」を単に「何かを虚構的とする精神状態」のような名目的な概念にすべきではない。これをやってしまうと、想像によって定義されたはずの虚構性の概念が実質的に未定義になる。想像は、もっと実質的な中身のある精神状態のことでなければならない。例えば、想像を心的シミュレーションと捉えることは有望かもしれない。特に、ウォルトンはルールによって虚構性を特徴付けることを放棄しているので(p.185)、想像という精神状態を特定することはこのプロジェクトにとって決定的に重要になるはずだ。
しかし、ある特定の経験が想像という精神状態を含むという議論をウォルトンがきちんとやっているかというと怪しい。ウォルトンがしばしばやる議論は、「ここではpが成り立っているように見えるが実際にはpではない。従って、虚構的にpなのである」というもので、pが想像されているという議論がおざなりにされがちだ。


ウォルトンはこの本の中のいくつかの箇所で、普通は虚構的と見なされないものが虚構的であるという議論を行っている。
ひとつは、フィクション受容の感情を巡る議論。フィクションに対する恐怖や怒りは、虚構的な恐怖や虚構的な怒りであり、本当の感情ではない。
もうひとつは、絵画的表象。絵画は、虚構的な視覚経験を与える。
最後は、フィクションに関するフリを含まない発話。「シャーロック・ホームズコナン・ドイルが作ったキャラクターだ」と言う時、私たちは、虚構的にそう主張している。
このそれぞれの議論が成功しているかどうかは、それぞれの現象において、想像の経験が単に名目的なものになっていないかに左右される。ウォルトンの議論がうまくいっているかどうかについては、それぞれ実質的な検討が必要であると思う。

真理と虚構性

真理の概念は表象にとって中心的なものだ。表象が何かの内容を持っているとは、その表象が何かを真としているということだ。
例えば、ある言語における真理の定義を与えることで、その言語の任意の文の内容や意味を特定することができる(真理条件的意味論)。また、信念のような精神状態が何であるか、主張のような発話行為が何であるかも、真理の概念と切り離せないだろう*1
ウォルトンのプロジェクトは本質的にはこの模倣で、虚構性という真理の代用品を利用する。それは、真理志向的ではないようなタイプの表象に統一的な分析を与える。ウォルトンがフィクションと呼ぶのは、普通にフィクションと呼ばれているもののことではなく、虚構性を志向する特殊な表象のタイプだ。
真理によって信念や主張を分析するのと同じように、ウォルトンは虚構性によって、虚構的な心理状態や虚構的表象の分析を与える。真理条件的意味論は、真理とは何かが知られているかぎりにおいて成り立つということはデイヴィドソンにとって非常に重大な問題だった。虚構性が真理よりもずっと馴染みのない概念であることを考えると、虚構性とは何かという問題は、ウォルトンのプロジェクトにとってそれ以上にクリティカルな問題となるだろう。

*1:反対に、真理の概念が主張や信念によって分析されるべきだと考える人もいるだろうが。