タイトルに特に意味はない。
少し前に「図像的フィクショナルキャラクターの問題」という論文を書いた。
『ハーフリアル』の翻訳も好評、きえいのゲーム美学者松永伸司*1が、先日フィルカル Vol. 1, No. 2掲載の論文「キャラクタは重なり合う」で、上記の論文を詳細に検討してくれた。本エントリは、こちらの論文にリアクションすることを目的とするものだ。ただし、直接の反論というよりは、論文であまり敷衍できなかった論点などの補足が多い。
なお、少し前にシノハラユウキの『フィクションは重なり合う』でも、こちらの論文の内容をさらに応用し、作品批評の形で展開してくれている*2。元々私の論文自体、分析美学におけるフィクションの哲学や描写の哲学の問題をマンガ表現論や批評の文脈に接続することが狙いのひとつだったので、この種の試みは非常にありがたい。
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キャラ絵の話
先にちょっと関係ないようで関係ある話から。下は私が描いたスネ夫の絵だ。
私が描いたのは、あんまりうまくないので微妙だけど、「スネ夫の絵を描いて」と言われたらだいたいこういうのを描くだろう。重要なのは、この絵は様式化を含んでいることだ。スネ夫は口が顔からはみ出ており、顔の下から三分の一がほぼ口に占められているような様式で描かれる。
しかし普通に考えれば、これはデフォルメであるはずだ。スネ夫は設定上人間なので、おそらく、顔の下から三分の一が口で、口が数センチ顔からはみだしているような形状ではない。「いや、実はそういう特殊な顔のかたちなのだ」という解釈が難しいという話はもう論文でやったので、ここでは取り上げない。ここでは、論文で「非正確説」と呼んだ立場を前提としている。
ところが、キャラクター*3の絵(以下「キャラ絵」と呼ぶ)の場合不思議な現象があって、「スネ夫の絵を描いて」と言われれば、この様式を採用しなければならない。これはかなり奇妙な話で、様式は、本来なら任意に選択できるはずだ。ところが、スネ夫の絵を描くときに、口をもっと人間らしい大きさにして顔の真ん中に配置することは、スネ夫の絵としては不正解だろう。ある種のキャラ絵には、「正解」「不正解」がはっきりあって、しかもそれは特定の様式化と結びついている*4。「リアルドラえもん」のような絵がギャグとして通用するのも、こうした慣習を前提にした上でのことだろう*5。
一方、「石原さとみ(実在の人物なら誰でもいいけど)の絵を描いて」という場合だと話は別だ。私は描けないので描かないけど、描ける人ならば自分の絵柄で石原さとみの似顔絵を描くだろう。そこでは、目を大きく描くとか、口を大きく描くというのは、スタイルとして自由に選択にできるものであるはずだ。そこに「うまい」「へた」はあっても、「正解」「不正解」はない。そう言えば、少し前にいろんな絵柄でシン・ゴジラの登場人物を描くのが流行ったが、そこに、スネ夫の絵のような「正解」はないだろう。
まとめると、(ある種の)キャラ絵と、実在の人物の絵というのは、かなり異なるものであるように思われる。
絵の種類 | 評価規準 | 様式化 |
---|---|---|
キャラ絵 | 正解/不正解 | 特定の様式化と結びつく |
実在の人物の絵 | うまい/へた | 様式化は自由 |
絵の二種類の内容
「顔の下から三分の一が口」「口が数センチ顔からはみだす」といった描写は、あくまでも様式化だということをさっき書いた。この種の「様式化された絵に描かれ・見てとることができるが、対象に帰属されない性質」を論文では、「分離された内容」と呼んだ。
つまり、スネ夫の絵は以下のような二種類の内容をもつ。
内容の種類 | 内容の中身 |
---|---|
分離された内容 | 顔の下から三分の一が口。口が数センチ顔からはみだす。 |
描写内容 | 口の大きさなどについては不確定。 |
上記の2つの内容の区別は、描写の哲学などでは以前から指摘されていた事柄であり、特にキャラクターの絵にかぎった問題ではない。よくあげられるのは棒人間の絵の例だが、棒人間は「簡略化された人間の絵」であって、棒状の謎生物を描いたものではない。それは棒状のシェイプを描くことで(分離された内容)、簡略化された不確定な人間の身体(描写内容)を描いている。
ただし、前節で指摘したように、ある種のキャラ絵の場合、特定の様式化と固定的に結びつくために、事態がややこしくなる。スネ夫は、つねに特定の分離された内容を伴って絵に描かれる。スネ夫は実際にああいう形状なのだと(誤って)言いたくなる理由のひとつは、そこにあるだろう。
キャラクターの識別
松永はキャラ絵の正解/不正解の話から、キャラ絵には、「登場人物を表わすもの」という水準だけではなく、演じ手としてキャラクターの役割を表現する水準もあるのではないかという話へ進んでいく。前者は通常の物語内の登場人物としてのキャラクターで、こちらはDキャラクタ(ダイジェスティックキャラクタ)と呼ばれる。後者は、演じ手としてのキャラクターで、Pキャラクタ(パフォーミングキャラクタ)と呼ばれる。Pキャラクタは、上記の分離した内容に相当する性質をもち、それにくわえ、キャラクターの設定の一部を持つ。詳しくは上記の松永論文を参照。
この松永の試みは、おもしろいアイデアだと思う。ただし、私自身は、このアイデアの真価はつかみかねている。少なくとも、上記のようなキャラ絵に関する現象はもっとシンプルに説明できるように思うからだ。
以下素描的に、私なりの説明を書きつらねてみよう。まず、マンガやアニメには、実際的な問題として、絵の上でキャラクターの識別ができるようにしなければならないという課題がある。描き手は、このためにさまざまな手段を用意する。それは、衣装や髪型や髪の色のような「記号」による場合もある。あるいは、記号に頼らなくても顔立ちをきちんと描きわけられる作家もいる(ただし、その場合も、顔立ちなどが識別を可能にする目印になるわけだが)。いずれにせよ、読み手はそれらの目印を手がかりに、どの絵がどのキャラクターに対応するのかを判別するだろう。
キャラ識別の目印として、同じ様式化を使って同じキャラクターを描くという選択肢もある。例えば、スネ夫の口が顔から突き出ているように描かれることは、この一例だろう。それは、単にスネ夫の顔形を表現するだけではなく、スネ夫の絵を他のキャラクターの絵から区別可能にする役割も負っている。
作者にとって利用可能な目印は、原理的には他の人による再生産も可能だ(正確な再現には、田中圭一のような高度な技能が必要だとしても)。また、共同制作などのケースでは、実際にこの種の目印が複数人によって利用され、特定のキャラクターを描いた絵を作り出すために用いられるだろう。
一方、「スネ夫の絵を描いて」という日常の場面でリクエストされているのは、この再生産の作業、つまり「公式の作品で用いられる目印を用いて、公式の作品と同じ形でキャラ絵を再生産してほしい」ということであるように思われる。要するに、それは「登場人物を絵に描け」というプレーンな依頼ではなく、「作品と同じ仕方でキャラ絵を作れ」というもっと特殊な要望なのではないだろうか。
上記のように理解すれば、キャラ絵に、明確な正解/不正解があり、様式化も固定されるという現象は説明できる。またこの種のリクエストが、記号化され、多くの人が再生産可能なキャラクタに限定されがちであることも注意しておきたい。例えば『はじめの一歩』の一歩のような比較的写実的なキャラ絵を描いてほしいというのは、無茶な依頼になるだろう。
ここではあくまで「絵」の話しかしてないし、松永のようにキャラクター概念を二種類にわけるような話はしていない。個人的にはこのくらいの説明で十分ではないかと思うのだが、二次創作など、キャラクターの間作品的同一性まで広げて考えれば、松永のアイデアには別の有効性があるかもしれないとも思う。また、ひょっとするとあまり対立することは言ってないのかもしれないとも思うのだが、「キャラクタ空間」などの松永のアイデアの有効性はまだよくわからずにいる。
美的判断の問題
論文では、非正確説から、キャラクターの美的判断に関するパズルが生じることを論じた。詳しくは繰り返さないが、基本的に、このパズルが生じるためには、以下の二つの条件を満たす事例があればいい。
- 1 鑑賞者は、キャラクターの外見に関して、正当に美的判断できている。
- 2 様式化、特に形に関するデフォルメが用いられており、非正確説に従えば、鑑賞者はキャラクターの外見について十分に知ることができない。
私の主張は、明らかにこれを満たす例はたくさんあるだろうというもので、論文では、『ひだまりスケッチ』の例をあげた。一方、以下の前提ももっともらしい。
- 3 キャラクターの外見に大して美的判断をおこなうには、その外見について十分に知っていなければならない。
ところが、これと2から1の否定が出てきてしまう。私は、フィクションに関して3が成り立つことを否定し、以下のようなフィクションにおける画像の解釈規則を提案した。あれこれ書いているが、要するに基本的な中身は、「デフォルメなどを含むキャラ絵の場合、分離した内容をもとに登場人物の印象や美的性質を判断していいよ」ということだ。
キャラクターxの公式の図像が、恒常的に、分離された対象yを持ち、鑑賞者sが美的判断によってyに美的性質Pを帰属させるならば、フィクションにおいて、sは美的判断によってxに美的性質Pを帰属させる。p.32
松永論文では、このパズルの解決が批判されている。ただ、ここの議論は多少誤解が含まれていると思う。
松永によれば、上記のような規則には明らかに反例がある。「この規則によって説明されるケースもあるだろうが」、そうでないケースもあるだろうと言うのだ(p.103)。例えば、『ナニワ金融道』に美男美女という設定のキャラクターが登場しても、美男美女には見えないという例を松永はあげている*6。
しかし、これはまずパズルの理解としてちょっとおかしい。私が元々取り上げていたパズルは、理想的なケースに関するものであることに注意してほしい*7。つまり私は、1のようなことがつねに成り立つだろうとは言っていない。考えたかったのは、様式化が用いられる事例でも、いくつか条件が成り立てば私たちはキャラクターの外見に関して美的判断ができるように思われるし、ある程度理想的なケースであっても鑑賞者が自らの趣味を通じてキャラクターの美的性質を知ることができないとすれば、それは奇妙だろうという問題だ。この意味で、松永があげている『ナニワ金融道』などの例は元のパズルとは直接関係ない。松永があげている事例では、そもそも1が成り立っているかどうかあやしいということには同意する。したがってこの点では、特に対立はないと思う。
もし松永が、様式化が用いられ、鑑賞者が登場人物の外見を十分知ることができない事例では、いかなる条件が整っていても、登場人物(Dキャラクタ)の美的性質を鑑賞者が趣味に基づいて知ることができないと認めるなら対立するだろう(私が論文で、誤謬説と呼んで拒否しているのはこれを認める立場だ)。しかし、どうもそうではなさそうなので、ここは誤解だと思う。
おかしなフィクション
また、これについては私の書き方が悪かったのかもしれないが、私は上記の規則を反例のない法則のようなものとして提示したつもりはなかった。以下この点を敷衍しつつ、理想的でないケースの話をしよう。上記の規則は、「なるべくそのように読め」という類の規則だ。類比で考えるために、これと似た規則をあげよう。例えば、「明示的に否定されないかぎり、登場人物は現実の人間に類似したふるまいをすると想定せよ」という規則は、これに近い。
登場人物が現実の人間らしくふるまわず、この規則の適用が難しくなる例はたくさんある。たとえば『ウルトラマン』の第一話では、突然現れた謎の巨人(ウルトラマン)が怪獣ベムラーと戦いはじめる。それを見ていた科学特捜隊のメンバーは、なぜかはじめからこの巨人が怪獣を倒しに来た正義の味方であると信じ込んでおり、応援をはじめる。もちろんウルトラマンが正義のヒーローであることは、この作品において実際に正しいのだが、ハヤタ以外の科学特捜隊のメンバーがそう信じた理由はわからない。むしろ登場人物が得ているはずの情報からすれば、この場面は「二体の巨大生物が格闘をはじめた」と理解されるように思われる。登場人物が現実の人間のように状況に対応すると想定するかぎり、上記のような場面はきわめて不自然だ*8。
この場面で、何が虚構的真なのかは難しい。科学特捜隊はものすごく楽天的なのかもしれない。勘で正義の味方を見分けたのかもしれない。未知の巨人を正義のヒーローと思い込むことは、この作品の世界ではごく普通のことなのかもしれない。これらの解釈のうちのどれが正しいのかは不確定なのかもしれない。
実際のフィクションは、すみずみまで整合的な世界ではないので、この種の例はいくらでもある。『ナニワ金融道』の例も、私はそのように理解する。美男美女であるはずのキャラクターがまったく美男美女に見えないことについては、無視すべきかもしれないし、この世界ではそれが美しい顔なのかもしれないし、不確定なのかもしれない。
しかしそのことによって、上記のような規則が存在しないことにはならない。むしろこの種の例が作品の欠陥に見えるのは、上記のような規則が一定の慣習的効力をもつからだろう。
これは、アドホックな慣習が現実にどうやって運用されるかという話であって、あまり理論的に解決する問題ではないと思う。これらの問題は、ウォルトンが馬鹿げた疑問silly questionと呼んだものに近い。ウォルトンはこの種の問題に対する解決策をいくつかあげている*9。基本的には、矛盾にいたる事実のうちのどれかを無視することになる。とりあえずここでは、多様な解決策があるということだけで充分だろう。
なお、やや脱線になるが、泉信行「アイドルアニメと美少女の表現史 一九八〇—二〇一〇年代」は豊富な例とともに美少女表現の例を追っており、設定と表現のズレについても指摘がある*10。泉は、心理的な距離と美化の程度が絵のレベルでどう表現されるかを指摘している。泉の指摘によれば、形を抽象化することは、親しみやすさや心理的な距離の近さを感じさせる。また、装飾的な線を増やすこと(線の情報量)は、キャラクターを魅力的に見せようとする度合いに対応する。親しみやすさの表現と、装飾的な線の組み合わせは、ふつうの外見を魅力的に見せる目的に適する。一方、整った複雑な形を描くことは心理的な距離を感じさせ、「いわゆる美人」の表現に適している。
この種の例は、より複雑な事例──「いわゆる美人ではないが、自分にとっては魅力的だ」と鑑賞者に感じさせる作品*11──を示唆している。つまり、絵の分離された内容の美的判断が単純に登場人物に投射されるというだけではなく、それが主観的なものとして提示されるか客観的なものとして提示されるかという軸もあるのかもしれない*12。
*1:以下は論文調なので、敬称なしでいきます。
*2:タイトルに「重なり合う」とつけるのがはやっている。
*3:なお、松永は「キャラクタ」と表記しているが、私は伸ばす方が好きなので、引用以外では「キャラクター」表記を採用させてもらう。
*4:『ドラえもん』みたいな様式化された画風ではなく、もっと写実的な画風だと話は別かもしれないけど、とりあえずその話は置いておく。
*5:なお、原作と違う絵柄でスネ夫が登場する二次創作を描くことは、もちろん可能だろう。しかし「スネ夫の絵を描いて」という日常の風景で求められているのはおそらくそういうことではない。
*6:きちんと確認していないが、市村朱美などは美人という設定だったような気がする。肉欲棒太郎も美男設定かもしれない。なお、あまり関係ないが、青木雄二の絵はヘタなのかというのは昔BSマンガ夜話でも盛り上がっていた記憶がある。少なくとも、美男美女らしく見えない絵柄ではある。
*7:p.26あたりでいろいろ条件をつけている。設定と表現が食いちがっていないことは条件に明示的には含めていなかったが、含めてもよい。
*8:ちなみに、私は未見だが、『ウルトラマンG』では、この点が「改善」されており、ウルトラマンGは当初もう一匹の怪獣と見なされるらしい(@pubkugyo からこの情報をいただいた)。
*9:『フィクションとは何か』pp.173-182。
*10:泉信行「アイドルアニメと美少女の表現史 一九八〇—二〇一〇年代」『ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集=アイドルアニメ』
*11:あるいは、語り手がそのように提示する作品といった方がいいかもしれない。
*12:ただし、鑑賞者は、単純に絵のレベルでかわいく見えればかわいい登場人物として扱う傾向にあるという点は泉によっても指摘されている。