https://philpapers.org/rec/LEVFMA-2
Levinson, Jerrold (1996). Film Music and Narrative Agency. In David Bordwell Noel Carroll (ed.), Post-Theory: Reconstructing Film Studies. U Wisconsin Press.
上の文献表は映画についての論文集だが、下記の論文集にも収録されている。
Contemplating Art: Essays in Aesthetics
- 作者: Jerrold Levinson
- 出版社/メーカー: Oxford University Press, U.S.A.
- 発売日: 2006/12/28
- メディア: ペーパーバック
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Jerrold LevinsonのFilm Music and Narrative Agencyは、映画音楽をとりあげた珍しい美学の論文。フィクションにおける映画音楽の役割をさまざまに分類している。
レヴィンソンによれば、物語外的nondiegeticな音楽であっても*1、フィクション内的なコメンタリーをする音楽と、フィクション外的なコメンタリーをする音楽にわけられる。
これはかなり微妙な区別であり、しかも非常に多様な事例があがっているのだが、前者の例としては、例えば、悲しい場面で悲しげな音楽が鳴るといった事例を考えてもらえればいい。この種の音楽は、登場人物と同じ目線に立って、物語内の出来事に対する評価的態度や情動を表現している。「音楽が物語内的な語りの一部になっている」と言ってもよいかもしれない。またムードや情動の表現だけではなく、『ジョーズ』で、音楽がサメの存在を示唆するといった事例も、「フィクション内的」な映画音楽に含まれるものとされる。
また、レヴィンソンは、フィクション内的な映画音楽を、映画の虚構の語り手に帰属している。つまり、ムードや情動を表現する音楽は、登場人物と同じレベルに位置する「虚構の語り手」のムードや情動を表現したものだと捉えているのだ*2。
一方、登場人物と同じレベルではなく、制作者や観賞者と同じレベルにたった映画音楽というのもある。例えば、カメラと音楽が同期するといった例は、主として音楽の効果が映画の美的側面にかかわっており、映画を見る観賞者や制作者のレベルに位置している(画面はフィクション外のものなので)。また、レヴィンソンは音楽のアイロニー的な使用も、このレベルに位置づけている。
大量の事例を検討している上に、大半の事例は、元の映画を観ないとわからないようなものだったので、まだ未消化だが、豊富な事例の検討はおもしろかった。また、映画だけではなく、同様の検討をビデオゲームに拡張するとどうなるかといった応用も考えられる研究だと思う。