Jonathan Bennet「出来事とは何か」

最近出来事関係の論文を読んでいて、出来事の再記述を認めるかどうかという対立がひっかかってきている。私にはあまりこの対立が深い対立であるとは思えなくて、出来事の再記述を認めないキムなどの立場でも、ほんのわずか修正するだけで、出来事の再記述を受け入れられると思う。
たまたま以下を読んだところ、ベネットがその辺をきちんと説明してくれていた。
http://philpapers.org/rec/BENWEA
Bennett, Jonathan (2002). What events are. In Richard M. Gale (ed.), The Blackwell Guide to Metaphysics. Blackwell Publishers. 43.

目次

  • 1. 序
  • 2. 出来事は性質例化物である
  • 3. キムの形而上学と出来事の意味論
  • 4. キムの「逃れられない常套句」
  • 5. 出来事を事実から区別する方法
  • 6. 完全な動名詞と不完全な動名詞
  • 7. 出来事でないトロープ
  • 8. 出来事の領域的融合体
  • 9. 出来事の同一性: 非重複原理
  • 10. 出来事の同一性: 部分と全体
  • 11. 出来事と「による」語法
  • 12. 出来事と副詞

トロープとしての出来事

ここでベネットは、出来事はトロープであるという見解を擁護している。
トロープとは個別的性質を意味し、〈赤さ〉一般とは区別された「この赤さ」のようなものを指す。
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ベネットによれば出来事はトロープである。ツバメの落下という出来事は、ツバメが持っている〈落ちる〉性質のトロープである。
一方、キムもベネット同様に出来事をトロープとするのだが、キムは出来事の再記述を認めないという間違いを犯している。ベネットはここでキムの方針を批判している。


なお、おそらくベネットはトロープが確定的であることを前提している。赤さのトロープは、〈赤さ〉一般とは違い、明度や色相や彩度が完全に確定した赤である。完全に確定した赤さトロープは、「赤さ」「色」「朱色」などといった複数の(不確定な)性質の例化物であり、この意味で「リッチな」存在者である。
↓以下に赤さトロープをいくつか置いておくので参考にしてほしい。

出来事の再記述

さて、太郎が次郎にキックしたとしよう。この時、「太郎の次郎へのキック」と「太郎の次郎への暴力」は同じ出来事だろうか。
ベネットによれば、両者は同じ出来事であり、出来事は様々に再記述されうる。
一方、キムによれば両者は別の出来事である。なぜならば、太郎のキックという出来事は、〈キック〉性という性質の例化であり、太郎の暴力という出来事は、〈暴力〉性という性質の例化である。しかし〈キック〉性の例化は〈暴力〉性の例化ではないからだ。


ベネットによればこれは誤っている。まず太郎のキックは、〈キック〉のトロープである。トロープは、確定的で詳細なものなので、普通私たちはトロープを完全な記述によって指示しない。
トロープはこの点で、物質的対象に似ている。「机の上の本」は実際には、「机の上の、青色の、500グラムの…etc.の本」である。しかしこれは長くて不便なので、「机の上の本」とか「机の上の青い本」とか、様々に記述される。
ベネットによれば、「〈キック〉性の例化」も「机の上の本」と同じく部分的記述であり、問題のトロープを完全に記述していない。
キムに従って、出来事を完全な記述で指示することにしてみよう。この場合でも、二つの出来事は等しくなる。まず、「〈キック〉性の例化」は実際には〈太郎の-次郎に対する-左足の-激しい-暴力としての-…etc.キック〉性の例化である。
一方、「〈暴力〉性の例化」は、〈太郎の-次郎に対する-左足の-激しい-キックによる…etc.暴力〉性の例化である。
完全な記述のもとでは、両者の記述は等しくなる。従って、太郎のキックと太郎の暴力を二つの出来事であると考えるべきではない。

出来事の名前

また、ベネットはおもしろいことを言っていて、キムの出来事の形而上学は正しいが、出来事の意味論が間違っている。
まずベネットによれば、完全名詞化した動名詞[perfect nominal]は出来事を指示するが、不完全な名詞化は事実を指示する。不完全名詞化というのは、動詞句の動詞部分だけを動名詞化して、副詞とか目的語が残っているもののこと。一方、完全に名詞化すると、副詞や目的語はそのままの形は取れなくなる。副詞は形容詞になり、目的語にはofがつく。
例をあげると、不完全名詞化は、「ブルータスがカエサルを刺したこと[Brutus's stabbing Caesar]」、完全名詞化は「ブルータスのカエサル刺し[Brutus's stabbing of Caesar]」。ベネットによれば、出来事に対応するのは後者の表現である。


キムは出来事を「ブルータスがカエサルを刺したこと[Brutus's stabbing Caesar]」などのように表現している。一方、デイヴィッドソンは「ブルータスのカエサル刺し[Brutus's stabbing of Caesar]」と表現している。デイヴィッドソンとキムの論争でも、キムは「ブルータスがカエサルを刺したことと、ブルータスがカエサルを殺したことは別である」と言い、デイヴィッドソンは「ブルータスのカエサル刺しは、ブルータスのカエサル殺しである」と言っている。


つまり、キムは動名詞の不完全な名詞形を使っているせいで、事実と出来事を混同している。出来事と違い、事実は、普通完全に記述され、細かい同一性の基準を持つプアーな存在者である。ベネットによれば、キムは事実と混同することで、出来事の同一性に関して誤ってしまったのではないかと。


これは私も経験があるが、確かに出来事を指示する場合は呼び方に気をつけないと事実と混同されやすい。しかし、動詞の名詞化を使うとかなりぎこちない日本語になるので、難しいところだ。
(柏端達也さんは確か同様の理由で、「ブルータスがカエサルを刺したそのこと」という表現を使っていた気がする)。

おまけ

なお、ベネットの議論を少し一般化すると、出来事の再記述を認めるには以下の二つを認めるだけでいいと思う。

  • 1. 出来事がリッチな存在者であることを認める
  • 2. 出来事を指す表現は、しばしば出来事を不完全にしか記述しないことを認める

1はベネットのようにトロープを認めなくても認められる。例えば、「複数の性質の複合体である」「複数の事態の集合体である」と考えればいいだけだ。ルイスのように、「出来事の本質的性質は一つだけだが、出来事は多くの偶然的性質も持つ」と考えてもいい。