Currie『物語と語り手』1章の人生はストーリーではない論証

Narratives and Narrators: A Philosophy of StoriesNarratives and Narrators: A Philosophy of Stories


1章4節の「自然の物語?」の箇所。
読み返していて、気になったのでまとめる。Currieはここで物語としての人生という議論を批判している。
物語としての人生の支持者によれば、人が人であるためには物語がなければならない。あるいは、人生が価値ある/意味あるものであるためには物語がなければならない。


一方、Currieによれば、物語は表象的人工物である。物語と呼ばれるのは、小説や映画などの表象である。人生は明らかにこの意味での表象ではない(トゥルーマンショーのように、人生を表象にさせられている人はいるかもしれないが)。
Currieは物語とストーリーを区別している。物語が表象であるのに対し、ストーリーはその内容である。ストーリーは「物語によればそうであること(whatever is so according to the narrative)」である。はっきりは書かれていないが、ここでストーリーと呼ばれるのは、事態や出来事の複合体だろう。


ところがCurrieによれば、人生はストーリーでもない。ここの議論はざっくり書かれているが、以下のようなものだと思う。

  • 1. 物語と、人生を比較すると、物語には多くの場合、誤りや省略が含まれている。
  • 2. ストーリーは定義上物語によって表現されたものであり、物語と、ストーリーを比較すると、誤りや省略はない。
  • 3. 従って、物語は人生を誤表象しうるが、物語はストーリーを誤表象しえない。
  • 4. 従って、人生とストーリーは異なる性質を持つ。
  • 5. 同一者不可識別の法則より、人生とストーリーは同一ではありえない。

例えばチャーチルの伝記は、チャーチルの人生に対して省略したり、誤っていたりする。ところがチャーチルの伝記が、伝記のストーリーに対して省略したり、誤っていたりすることはない。
Currieはストーリーと人生がオーバーラップするかもしれないとは認めるが、両者は同一ではありえないとしている。
(実際には、Currieはここで同一者不可識別の法則には訴えてはいなくて、単に3から両者は同一でないとしている。ただし、おそらく前提しているのは4、5のようなことだろう)


しかしこの議論はおかしいのではないかな。
「物語によって誤表象されうる」「されえない」という性質は、対象そのものの性質ではなく、外在的なものに思える。これは同一者不可識別の法則が当てはまらない例ではないか。



例えば、私が太郎の絵を描く。そして何であれ、絵が表象するものを「絵のモデル」と呼ぶ。私はCurrieの議論に影響を受け、次のように結論する。
「太郎の絵は太郎を誤表象することがありえる。しかし、太郎の絵は太郎のモデルを誤表象することはありえない。従って、太郎はこの絵のモデルではない」
あるいは、「『こころ』の著者が『こころ』を書かないことはありえない。しかし
夏目漱石は『こころ』を書かないことがありえた。よって夏目漱石は『こころ』の著者ではない」


ところが、これはおかしな議論だと思う。明らかにこの場合、「絵のモデル」は太郎だからだ。「絵のモデル」と「太郎」は同じ対象を異なる観点から捉えた記述にすぎない。
Currieが言うような「誤表象されうる」「されえない」という違いは、この観点の違いを反映しているだけのように思える。
別の言い方をすると、「ストーリー」「人生」は可能世界で別の対象を指すが、現実世界では同じ対象を指すという解釈もできるのではないか。
もちろん、物語が実際に誤っていればストーリーと人生の区別はできるのだが、Currieの議論は本質な違いがあげることに成功していないと思う。