Gregory Currie『物語と語り手』のストーリーとフレームワークの区別

Narratives and Narrators: A Philosophy of StoriesNarratives and Narrators: A Philosophy of Stories


5章6章あたりのフレームワークの話がおもしろかったのでまとめる。これまでいろんな箇所を紹介しているが、この本はおもしろい。
Gregory Currie『物語と語り手』3.4「表象の対応」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
Gregory Currie『物語と語り手』の性格懐疑論 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


Currieはあまり結びつけていないが、フレームワークの話は、フィクションの認知的価値を考える上でも重要な観点だろうと思った。

  • 5. 表出と模倣
    • 5.1. 視点によるフレーミング効果
    • 5.2. 会話、フレーミング、共同注意
    • 5.3. 共同注意とガイドされた注意
    • 5.4. 模倣
    • 5.5. 非現実の模倣
    • 5.6. 標準モデル
    • 補遺 表出と信号の信頼性
  • 6. 抵抗
    • 6.1. 抵抗の種類
    • 6.2. 能力
    • 6.3. 抵抗の進化
    • 6.4. フレームワークと内容の混同
    • 6.5. 結論

フレームワークとは、「ストーリーに対する望ましい、認知的、評価的、感情的反応」であり、ストーリーとは区別される。物語がストーリー上の出来事に対し、「これをこのように見なさい」という示唆を与えるとき、示唆された反応のセットのことをフレームワークと呼ぶ。物語はしばしば、この出来事は恐ろしいことだとか、この登場人物は尊敬すべき人だという提示の仕方をする。芸術作品は世界の見方を提示するとか言われることがあるが、そこでいう「世界の見方」にあたるものだと思う。
読者はこれに従うこともできるが、抵抗することもできる。
フィクションの場合、この抵抗できるといういう点はストーリーとフレームワークとの重要な違いにあたる。というのも、ストーリーとして描かれていることを受け入れないならば、もはやフィクションを読んでいるとは言えないわけだが、フレームワークを受け入れずにフィクションを読むことは許されるからだ(ただし、両者の違いはそこまで厳密なものではないし、変動することもある)。読者は、作中で尊敬すべき人物として描かれる英雄を、いけすかないやつだと思うかもしれないし、悲劇的な出来事でも笑うかもしれない。Currieは六章でこの現象を想像的抵抗と結びつけて語っている。私たちは、タイムパラドックスのように、矛盾していたり、不可能なフィクションはあっさり受け入れるのに、フレームワークを受け入れることには強い抵抗を示したりする。


物語はどうやってフレームワークを伝えるのか。Currieは語り手の存在に着目する(それが唯一のやり方だとは言っていない)。語り手は常に特定の視点を持った語り手であり、限定された事実だけを語り、限定された要素を強調する。読者は語り手の注意の向け方に影響される。Currieは認知科学における「共同注意」の現象に訴えてこれを説明している(厳密には、本当にリアルタイムに注意を共有するわけではないので、「ガイドされた注意」と呼んでいる)。読者は、語り手の注意を共有する。
また、読者は語り手の反応を模倣する。笑っている人を見るとつい笑ってしまうのと同じように、しばしば自覚されない感情の伝染が利用される。
共同注意も、模倣も、多くは意図的行為ではないので、フレームワークの伝達は明示的な言明ではなく、ときに無自覚的な感情やムードの表出を通じてなされる。従って、読者はフレームワークを受け入れないこともできるが、それには努力が必要とされる。


おもしろいのは、Currieがフレームワークと内容が混同されるケースとしてあげている例だ。Currieは黒澤明の「羅生門」とプルーストの『失われた時を求めて』を例にあげている。「羅生門」には、真理の複数性みたいな主張がこめられていると言われるし、『失われた時を求めて』には時間に関する独自の形而上学的主張があると言われる(解説しないので、ぐぐってください)。しかしCurrieはこれらの作品は素晴らしいと思うものの、その形而上学的主張は受け入れない。これらの形而上学的主張が作品のフィクション世界の中でさえ成り立っているとは思わない。
Currieによればこれもフレームワークにあたる。物語は、特定の出来事を形而上学的に重要なものとして提示する。しかしその形而上学的重要性を受け入れないこともできる。
一方、形而上学的主張がもっと深くストーリーに組み込まれていることもある。Currieがあげている例ではないが、『ジョジョの奇妙な冒険』を読んで、「世界が一巡した」ということを受け入れないことは難しいだろう。現実にそういうことが起こりえるかどうかはともかく、物語上でそういうことが起きたということは受け入れるだろう。