Davia Davies「芸術と科学におけるフィクションの物語から学ぶこと」

http://link.springer.com/chapter/10.1007/978-90-481-3851-7_4

節タイトルは勝手につけました。

  • 1. 思考実験の認識論的問題
  • 2. 文学についての認知説
  • 3. 思考実験から認知説を擁護する諸説
  • 4. 思考実験における弱いインフレ説を文学に適用する


思考実験との比較から、フィクションから新しい知識を得られるという見解(認知説)を擁護する論文。先行研究がわりとまとまってるので良かった。


トマト・クーンは自然科学における思考実験(ガリレオの塔の思考実験やマクスウェルの悪魔)について、思考実験の認識論的問題というものを提起しているらしい。問題になっているのは、思考実験では新しいデータが得られそうにないにもかかわらず、思考実験によって、新しい知識を手に入れられるところにある。
(元々問題になっていたのは自然科学における思考実験だが、同じ問題は哲学の思考実験にもあてはまる)

  • C1 思考実験は世界の状態に関わる新しい経験的データをもたらさない。
  • C2 にもかかわらず、思考実験は物理的世界について新しい情報をもたらす。
  • C3 思考実験は、標準的な推論のいずれにも還元できない。


Davisは、この問題への対応を四つに分類している。まずデフレ説とインフレ説の区別。

デフレ説
C2かC3を否定する。思考実験が新しい知識をもたらすことを認めないか、思考実験を他の推論の一種と捉える。
インフレ説
思考実験は独自の認知的価値を持つと考え、それを説明しようとする。


また、それぞれをさらに極端な立場と穏健な立場に分ける。

極端なデフレ説
思考実験はせいぜいただの発見法にすぎない。自然についてではなく、概念装置についての新しい理解をもたらすだけ。
穏健なデフレ説
思考実験は新しい知識をもたらすが、通常の経験や推論によって再構築できる。
極端なインフレ説
思考実験では、知的直観によって、結論が直接的に知られる。
穏健なインフレ説
思考実験では、分節化されておらず、明示的になっていない知識が動員される。本能的知識、暗黙知、know-how、メンタルモデルなど、呼び方は様々。

Davis自身は穏健なインフレ説を取る。思考実験は古いデータを操作して新しいデータをつくる。その際命題化されていない認知リソースが様々に利用される。


一方、フィクションの認知的価値を巡る議論についてもよく似た問題がある。この領域でも、文学などから学ぶことができると考える論者(認知説)と、それを認めない論者が対立する。


フィクションがもたらす知識の源泉の候補として、以下の四種類があげられている。

事実についての情報
ホームズを読んで昔のロンドンについて知るなど。
一般的原理の理解
道徳についての洞察や心理についての洞察など、個別例を越えた一般的な原理の理解を得る。
カテゴリーの理解
カフカ的状況」のような新しいカテゴリーを得る。
情緒的知識
特定の状況にあることがどのようであるかについての知識。これは道徳的に複雑な状況を理解し、適切に反応するために重要である。


これのどこに問題があるか。科学や歴史など知識を得るための実践には、共有された認識の規範がある。フィクションの場合にそれがあるかどうかは怪しい。例えば、現実のロンドンを描いているとみせかけてデタラメを書くことも許されている。つまり、フィクションに正しいことが書いてあることはあるにせよ、そうした言明は十分に正当化されていないのではないか?
少なくとも、事実についての知識をフィクションが与えられるという主張はこの点で疑わしい。


認知説の反対者によれば、フィクションにできるのはせいぜい魅力的な仮説を立てることだけである。仮説を検証することはフィクションとは別の実践になる。


Davisによれば、認知説の反対者にとって、後者の点は重要である。フィクションが新しい事実の知識をもたらさないとしても、それだけなら「理論的科学」にも同じことが言える。ただし、科学の場合、理論的科学と経験的な科学が同じ科学の実践の中で協調することで、新しい知識を生み出す。フィクションの場合、仮説の検証は、フィクションから独立した別の実践によって行われるというところに問題がある。
フィクションは仮説を提示するだけで、それを検証するのは科学の問題だということになれば、フィクションが知識を生み出しているとは言えない。


文学についての認知説を擁護する論者はしばしば思考実験とのアナロジーに訴える。Davisはキャロル、エルギン、ヤングの3人の議論を検討している。
ノエル・キャロルによれば、ボルヘスの「ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」やグレアム・グリーンの「第三の男」、E.M.フォースターの「ハワーズエンド」は、哲学的な思考実験になぞらえられる。思考実験は概念の洗練と区別に役立つ。
ただしキャロル説では、文学は概念を洗練させるだけで、世界についての新しい知識をもたらさない。
一方エルギンとヤングの議論では、思考実験や文学は、何らかの特徴を例示したフィクション世界を提示し、その帰結を描く。こうした特徴は他の状況にも投射できるものになっている。
これは、フィクションは新しい情報をもたらさないという主張に反対する議論になっている。


Davisは二人の議論にくわえ、思考実験についての穏健なインフレ説を援用することで、仮説検証プロセスはフィクション外部の実践ではないかという批判に答える。
思考実験と同様に、フィクションの場合でも、分節化されていない認知リソースを用いて特定の帰結を引き出すようなことが行われているとすれば、検証プロセスに相当するものも、フィクションを読むことに内在的なプロセスとして捉えられる。
ただしDavisはこれによって得られる知識を、一般的原理の理解とカテゴリーの理解に限定している。