ホームズは必然的に人ではないのか

細かい話。
『名指しと必然性』のアペンディクスで、クリプキはホームズという人が存在する可能世界はないとしている。率直に解釈すれば、これは「ホームズが人であることは不可能だ」「ホームズは必然的に人ではない」ということのように思われる。というのも、可能世界意味論のフレームワークでは、pが不可能であることはpが真である可能世界がないことによって定義されるのだから。実際、以前紹介したLiebesmanもそのように解釈していたし、私もそのように思っていた(ただしLiebesmanはクリプキが「不可能」という言葉を使っていないことに気づいており、注で触れている)。

名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題

該当箇所を引こう(翻訳がみあたらないので孫引きで)。

幾人かの異なる可能な人々、あるいはダーウィン切り裂きジャックのような現実の人さえも、ホームズのふるまいを実行したかもしれないが、もし仮にある人がそれらのふるまいを実行したならば、その人はホームズだったと言えるような人はいない。もしいるならば、どれがその人なのか。

ここでクリプキは、誰かについて、その人がホームズだったと言えるような反事実的状況はないと言っている。率直に解釈すれば、ホームズは必然的に人ではないと解釈できるだろう。ところが、別の場所でクリプキが述べていることに従うと、そうではなさそうだ。


Reference and Existenceの第二講義から引く。手元にkindle版しかないのでページ数がないけれど。
Reference and Existence: The John Locke LecturesReference and Existence: The John Locke Lectures


ここでクリプキは、いかなる動物が存在しても、それはドラゴンだと言うことはできないだろうという話をしている。いくら語られるところのドラゴンによく似た生物がいたとしても、それは神話上のドラゴンではない。「ゆえに、いかなる特定の可能世界についても、それがドラゴンを含むと言うことはできない」。
この箇所に以下の注がついている(p.47 注13)。

このことは、ドラゴンがいることやユニコーンがいることは不可能だ(合成的な素数や、私の立場によればH2Oでない水がそうであるように)と解釈されるべきではない。むしろ、ドラゴンやユニコーンはいないとすれば、その反事実的可能性は未定義[ill-defined]である。

どうもクリプキは、ある事柄が不可能であることと、その可能性が未定義であることを区別しているらしい。
ドラゴンの議論とホームズの議論がよく似ていること、上の引用でクリプキがわざわざ「不可能である」ではなく、誰かがホームズである反事実的状況はないととれるような書き方をしていることから推察すると、ホームズのケースについてもこの区別は当てはまるのだろう。おそらく、ホームズが人であることは不可能なのではなく、そのような可能性は未定義なのである。

どう違うのか?

多分こういうことなのではないかという解釈を書く。クリプキは以下の2つを区別している。

不可能なこと
合成的な素数があること。H2Oでない水があること。
可能性が未定義なこと
ドラゴンがいること。ホームズが人であること。

おそらく、不可能なことは、あるものの本質によって実現を阻まれるようなことなのだろう。一方、ドラゴンがいることはそうではない。これは単に、「ドラゴンがいた」と言える状況がないということだからだ。ドラゴンがいること、ホームズが人であることは、可能でも不可能でもなく、単にそういう様相的事実は未定義だということなのだろう。
式で書くと、上は偽で、下は未定義。

  • ◇∃x(xは水である & xはH2Oでない)
  • ◇∃x(xはドラゴンである)

これが興味深い区別なのかはわからない。クリプキは、ルイスなどに比べると、形而上学的様相に関して、どういうことなら有意味に言えるのかについて禁欲的なところがあるから、これもそういうことなのかもしれない。