http://philpapers.org/rec/FRITGB
Friend, Stacie (2011). The great beetle debate: A study in imagining with names. *Philosophical Studies* 153 (2):183-211.
- 1. 想像の指図
- 2. 標準的説明
- 3. 単称的想像
- 4. 想像の方法
- 5. 概念とその対象
- 6. ネットワークを同定する
- 7. 内容と真理条件
- 8. 結論
今度勉強会で読むのでレジメ作ってたんだけど、これは本当にいい論文だ。著者は「フィクショナルキャラクターは存在しないよ派」なんだけど、「フィクショナルキャラクターは存在するよ派」の私でも一瞬「これが正しい立場なのでは…」と説得されかかった(まあ最後の最後でうまくいかないのだけど)。
↓勉強会
分析美学研究会、次回は12/5。Stacie Friend "The great beetle debate: a study in imagining with names" - 昆虫亀
なおこの論文は、藤川本の副読論文としてかなりおすすめ。著者はかなり藤川さんとは異なる立場なのだが、道具立ては非常に似ており、両者を比較してみるとおもしろいと思う。
あとそういえばここで告知してなかったけど、年明けに京都で1/31(土)藤川直也さんの『名前に何の意味があるのか』の合評会で評者のひとりをつとめます。これもその準備のひとつ。
https://sites.google.com/site/kyotocolloquium/home/2015
背景を説明するのがちょっと大変なのだが、まずクリプキが『名指しと必然性』で記述説を徹底的に批判して以降、名前に関しては直接指示説が人気である。これらの人々によれば、名前の意味は指示対象につくされている。名前は単に人を指すだけであって、それ以上の意味はない。しかし直接指示説にとって、空名(指示対象を持たない名前)は鬼門となる。「ホームズ」という名前に指示対象がなく、名前の意味は指示対象につくされているとすると、「ホームズは探偵だ」「ホームズは存在しない」などの発話は端的に無意味になってしまうように思われる。空名の例はキャラクターだけではないが、とりあえずフィクショナルキャラクターの名前は「空名かつ意味をなしそうなもの」の第一候補である。
これに対するひとつの対応方法は「ホームズは存在する」と言いきってしまうこと。空名には意味はないかもしれない。しかしキャラクターの名前はそもそも空名ではない。個人的には、法律や料理のレシピや文学作品が存在するというのと同じ意味で、「人工物としてのキャラクター」が存在することを認めるのはまったく正当だと思っているので、私はこの立場を取りたい。
一方フレンドはキャラクターは存在せず、キャラクター名は空名であるという。なおフレンドはキャラクター名に関する立場をいろいろ場合わけしているのでそれを載せておこう。
キャラクター名に関する派閥 ├─ 直接指示を認めない派 │ ├─ 文説 │ └─ 記述説と量化説 └─ 直接指示を認める派 ├─ キャラクターは存在するよ派 │ └─ フィクション内的言明は単称命題を表現するよ └─ キャラクターは存在しないよ派 ├─ フィクション内的言明は命題を表現しないよ派 └─ フィクション内的言明は穴あき命題を表現するよ派 ├─ 言明の内容は語用論で特定されるよ派 └─ 言明の内容は想像の仕方によって特定されるよ派 ←著者の立場
著者の立場は、結構複雑なので説明しづらいが、以下のようなもの。
まず、キャラクターは存在しないので、「ホームズは探偵だ」といった発話が表現する内容は以下のような穴あき命題となる。
<_____, 探偵-性>
しかしフィクションについての発話は基本的に想像なので、この内容は、想像という命題的態度の中に埋め込まれている。
そして著者によれば、想像の内容には普通の発話にはない、特別な概念が関係することがある。
例えば太郎による「自己についての想像」と単なる「太郎についての想像」は違う。太郎が記憶喪失の状態で、自分であると気づかぬまま「太郎」について、「太郎は海賊である」と想像するケースと、自分自身について、「僕は海賊である」と想像するケースを比較されたい。両者は違っているだろう。
つまり以下の区別は、想像の内容について考えるかぎり、意味をなすだろう。
- <太郎(太郎概念), 海賊-性>
- <太郎(自己概念), 海賊-性>
著者はフィクショナルキャラクターについての想像も、こうした概念によってうまく特定できるのではないかという。
<_____(ホームズ概念), 探偵-性>
ちなみに、ここで著者が訴える概念[notion]なるものは、藤川さんが本の前半で、名前の指示を説明するために用いている概念ネットワークのアイデアと基本的には同じものである。
著者の立場が最終的にうまくいくかは疑問があるが、少なくともここは正しいと思った点は、フィクション作品は単に特定の内容を語っているだけではなく、読者に対するインストラクションみたいなものをたくさん含んでいるということ。
その例が、例えば「あなた自身について想像しなさい」(著者はカルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を取り上げている)。そしてこれらのインストラクションは、フィクション作品を単に「作品内で真である命題」の集まりとして考えようとするとうまく扱えなかったりする。で、このインストラクションと、インストラクションの結果想像される内容をうまく区別するのは大事な論点だと思った。