John MacFarlane「非指標的文脈主義」

http://philpapers.org/rec/MACNC
MacFarlane, John (2009). Nonindexical contextualism. Synthese 166 (2):231--250.

これまで、文脈主義と、指標的な文脈主義が混同されてきた。しかし、文脈主義には非指標的文脈主義もあるよという論文。
↓ちなみに、この論文も以前調べた引用数ランキングで引用数が100を越えていたもの。
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指標性
ある文脈における表現の内容が、文脈の特徴に依存する。
文脈感応性
ある文脈における表現の外延が、文脈の特徴に依存する。

同じ文が文脈によって異なる命題を表現するというのが指標的な文脈主義。同じ文が同じ命題を表現するんだけど、文脈によって真理値が異なるというのが非指標的文脈主義。
「同じ命題なのに文脈によって真理値が変わる」って何だよと思うかもしれないが、少なくとも皆、同じ命題でも可能世界によって真理値が変わることは認めているはずだ。あとマクファーレンによると、カプランは同じ命題が、発話の時点に相対的に異なる真理値を持つと考えていた。

とりあえず、時制のある文を考えよう。

S1: 「太郎は立っている」(時刻tになされた発話)

指標的文脈主義者によると、S1は以下のような命題を表現する。

P1〈太郎, 立っている, t〉

世界wの時刻tに太郎が立っているなら、P1は世界wで真。


非指標的文脈主義者によると、S1は以下のような命題を表現する。

P2〈太郎, 立っている〉

世界wの時刻tに太郎が立っているなら、P2は〈w, t〉で真。
S1が時刻tに発話されても、時刻t'に発話されても同じ命題を表現するのだけど、評価の文脈が発話の時刻に関して異なってきて、結果として真理値が異なる。


これだけだと何が違うのかよくわからないが、マクファーレンによると、「知っている[know]」についての文脈主義は、非指標的文脈主義の方がいい。

S2: 「太郎はPと知っている」(認識的基準eのもとでなされた発話)

指標的文脈主義者によると、S2は以下のような命題を表現する。

P3〈太郎, 知っている, P, e〉

世界wで基準eで太郎がPを知っているなら、P2は世界wで真。


非指標的文脈主義者によると、S2は以下のような命題を表現する。

P4〈太郎, 知っている, P〉

世界wで基準eで太郎がPを知っているなら、P2は〈w, e〉で真。


指標的文脈主義の反例として以下のようなものがある。

S3: 太郎「僕はPと知っている」(認識的基準e1のもとでなされた発話)
S4: 次郎「太郎はPと知っていると思っている」(認識的基準e2のもとでなされた発話)

もし、「知っている」の文脈依存性が指標的なものだとすると、次郎のS4における「知っている」はe2に従わないといけない。しかし、まあ普通S3の後に認識的基準が変わってもS4は真だと考える。よってこれは文脈主義への反例と見なされてきた。
しかし、マクファーレンによると、非指標的文脈主義は正しい予測を行なう。評価の文脈はS3でもS4でも〈w, e1〉になる(らしい)。


まあこんな感じで非指標的文脈主義はいいオプションになるので、非指標的文脈主義をよろしくと。
ちなみにマクファーレンは、本当は非指標的文脈主義より強い立場である相対主義を認める。相対主義によると、P4という同じ命題が、私にとって真で、あなたにとって偽であるみたいなことがあったりする(認識的基準が私とあなたで違う場合)。まあそこまで認めなくても非指標的文脈主義にはなれる。