John MacFarlane「主張とは何か」
またマクファーレン読んでた。これは主張という発語内行為は何をやっているのかという問題を扱うもの。
http://philpapers.org/rec/MACWIA-2
MacFarlane, John (2011). What Is Assertion? In Jessica Brown & Herman Cappelen (eds.), Assertion. Oup Oxford.
目次
- 1. 信念の表現としての主張
- 2. 規則によって定義された指し手としての主張
- 3. 共通の土台に情報を足す提案としての主張
- 4. コミットメントとしての主張
マクファーレンは四つの立場を分けている。
- 主張は信念の表現である
- 主張は言語ゲームの指し手である
- 主張は会話参加者の共通の土台に情報を足す提案である
- 主張は真理へのコミットメントを引き受けることである
本人としては四つ目を支持したいらしい。
主張が何であるかに関して、重視されているのは以下のようなこと。
- 多くの場合主張されるのは信じていることだが、常にそうであるとはかぎらない。
真理とか信念は主張に規範を課す。基本的には、信じていないこと、間違ったこと、根拠があやふやなことを主張してはならないことになっている。
ただ、特殊な状況、例えば、仮定を立てて議論するみたいなケースでは、信じていないことを主張できるかもしれない。
- 主張は撤回できる。
われわれは主張を後で取り消したりできる。従って、主張の効果は取り消し可能なものでなければならない。例えば、主張は信念の表現であるとすると、なぜ主張を撤回できるのかは謎になる。
- 主張とほのめかし
私たちは推薦状で「この学生は手芸がとてもうまい」と主張することで、「学業はいまいちだ」とほのめかすことができる。この場合、暗に「学業はいまいちだ」とも言われているが、主張されているのは「手芸がとてもうまい」ことだけのように思われる。
- 主張することで責任を引き受ける
主張する者は、主張したことが真であることについて責任を引き受けることになる。
最初の二つの説は、主張のある側面はとらえているが、主張とはこういう行為だという説明にはなっていない。
三番目の共通の土台に情報を足すという説明はよいのだが、会話の参加者とは誰なのかという説明が難しい。テレビのインタビューで、会話の参加者になっているのはインタビュアーとインタビュイーだけなのか、それとも視聴者全員なのか?
また、誰にともなく主張するとか、自分に対して主張することもできるかもしれない。
そこで、主張することはコミットメントであり、責任の引き受けであるという立場がよいのではないかと提案されている。ただし、主張によるコミットメントがどういうものであるかについては、ここではそれほどはっきりしていない。