これはおもしろかったし重要な論文だなー。
http://philpapers.org/rec/PERTWR
Perry, John (1986). Thought without representation. Proceedings of the Aristotelian Society 137:137-152.
ペリーが最初に立てている問いは、知覚がなぜ自己に関する情報を伝えるのかというものだ。知覚の中に私自身は現れないにもかかわらず、知覚は私と周囲のものの関係を伝える(距離、方向などなど)。ウィトゲンシュタインを引いて、「私の歯が痛い」には「私」が現われないし、そこにおける私は「それ」みたいなものだという話がでてくる。
ペリーは、一見遠回りに見える意味論上の問いを経由することでこれに答えている(正確に言うと、ちゃんと答えてはいない)。
「雨が降っている」
この文には場所を指示する表現が含まれないが、おそらくこの文が表現する内容が真であるのは、どこか特定の場所に雨が降っている時だ。東京に住む人が窓の外を見て、上の文を発する時、この文の使用が真であるのは、話者が位置する場所に雨が降っている場合だろう。では、この発話の内容は、場所を含むのだろうか。別の言い方をすれば、この発話は特定の場所についてのものなのか。
常にそうというわけではない。私たちは、自分がどこにいるか知らなかったとしても、「ここには雨が降っている」などということで、自分がいる場所について語ることができる。あるいは、「ここ」という表現を省略しても、「ここ」を意図して語ることができる。
しかし、発話は、「ここ」のような指標詞を経由せず、「ここ」のような指標詞概念を経由することさえなくても、場所に関わるものでありえる。
Zランド
ペリーはこれを、Zランド人という架空の人々の思考実験に訴えることで説明している。Zランド人はZランドに隔絶されて暮らしている。Zランドの外に出かけることはなく、外部との交流を持たない。Zランド人はZランド以外の場所があることも知らず、「Zランド」という概念を持っていない。Zランドの言語にも「雨が降っている」に相当する文があるが、これは当然ながら場所の修飾を受けない。Zランドの意味論者は「雨が降っている」を、時間から命題への関数、つまり時間の性質として分析する。
しかし、われわれの理解からすれば、Zランド語の「雨が降っている」が表現するものは命題ではありえない。Zランド人の自己理解がどうであれ、Zランド人の行為を導き、Zランド人が伝え合う情報は、Zランドに雨が降っていることなのだから。Zランド人の意味論が正しいとすれば、Zランド語の「雨が降っている」が表現するものは、場所から命題への関数、つまり命題関数である。従って、Zランド人は、命題ではなく、命題関数を主張したり、信じたりしていることになる。
ペリーは「ついて[about]」と「関わる[concern]」を区別する。Zランド人の発話は、Zランドについてのものではない。しかしZランドは、Zランド人の天気についての語りに関わるグローバルファクターである。私たちは、外的なファクターを経由することで、完全な命題ではないものを主張したり信じたりすることができる。
3つの思考
ペリーによれば、私たちの思考や発話も、いくらかZランド人のそれに似ている。雨が降ってるのを見てとっさに傘をもって外に出るといった状況を考えよう。この際、雨が降っているという思考は、行為を導く働きをもつ。しかしそれは特定の場所を意図したものではない。
ペリーは三つのタイプの思考をわけている。
- 1. Zランド人の信念のような「原初的信念」。ex.「雨が降っている」。それは場所のような要因に関わり、それらの要因を経由することで、行為を導く。
- 2. 指標詞的信念。ex.「ここには雨が降っている」。行為者と特定の関係にある要素(例えば行為者がいる場所)についての思考。それは「ここは東京である」などの信念を経由することで、非文脈的信念と結びつく。
- 3. 非文脈的信念。ex.「東京には雨が降っている」。ニュースで流れる様々な場所の天候など、文脈に左右されない特定の要素についての思考。
ちなみにペリーは最初の問いは放りだして、天気の話だけを書いているのだが、おそらく言いたいのはこういうことだろう。Zランド人の思考や言語がZランドに関わるものであるのと同様に、知覚は行為者に関わるものだ。行為者自身は知覚の内容の構成要素ではないが、行為者自身を外的要因として経由することで、知覚の内容は真であったり偽であったりする。知覚の内容は、行為者から命題への関数で、行為者と時間と世界の順序対によって真になるとか、そういう話。
これ「関わる」、ものすごく重要な概念なのに、用語が普通すぎて使いづらいな。
コメント
デイヴィド・ルイスはde se態度についての論文で、態度の対象は、命題ではなく、中心化された可能世界、つまり世界と人のペアだという話をしているけど、これはそれを発展させた話にあたる。命題を世界の集合で個別化できるように、命題関数は世界と何かのペアで表現できる。ペリーのアイデアだと、<世界, 人>だけじゃなくて、<世界, 場所>とかもっといろんなものが思考や発話の対象になりえる。
この論文は影響力が強く、マクファーレンなどもよくこれを参照している。相対主義の意味論で、「納豆はおいしい」は私の趣味のもとで真だが、あなたの趣味のもとで偽であるなどというとき、趣味は発話に対して、ペリーのいう「関わる[concern]」関係にあるとされる。つまり、<世界, 趣味>も思考や発話の対象になる。
要するに、環境要因と結合することではじめて真偽をもつような不完全な内容は、思考と行為の秩序の中でちゃんと役割を果たすし、われわれは実は不完全な内容を思考したり、コミュニケートしたりしているんだという発想。