http://philpapers.org/rec/KINTMA
King, Jeffrey C. (2003). Tense, modality, and semantic values. Philosophical Perspectives 17 (1):195–246.
時制の意味論に関する古典的な論文。
- 1. 序
- 2. ルイスの議論
- 3. 時制と命題に関するマーク・リチャードとナサン・サーモン
- 4. ルイスへの反論
- 補遺1. ルイスへの他の反論
- 補遺2. 埋め込み時制を含む複雑なデータ
「東京では雨が降っている」「どこかで雨が降っている」「あるとき雨が降っていた」
古典的な立場ではこれらの文の「東京では」や「どこかで」や「あるとき」は文演算子であるとされる。それは「雨が降っている」に作用し、インデックスをシフトさせ、文全体の真理は「雨が降っている」の評価環境における真理値によって定まる。
ところが、これは何かおかしい。この立場だと、単独の「雨が降っている」は時点や場所によって異なる真理値をもつ何かである。したがって、それは古典的命題ではない。信念の対象が古典的な命題であるとすれば、この立場では、文演算子が作用する対象(文の合成的意味)と、信念の対象や主張の対象(命題)を区別しなければならないように思われるのである。
実際ルイスはそのように議論している。時制や場所が文演算子として扱われる以上、文に割り当てられる意味論的な値は命題ではありえない。
キングのこの論文では、自然言語における時制や場所は文演算子ではないと議論することで、このルイスの議論に反対している。データは、時制も場所も文演算子ではないことを示している。
キングによれば時間や場所は、文演算子ではない。それは対象言語において量化されたり、代名詞に指示される。キングがあげているデータは多岐にわたるが、以下時制に関するものの一部だけを紹介する。
例えば、過去時制は、演算子アプローチでは以下のように分析される。
'Past(φ)' が時点tに真である iff あるt' < tがあり、'φ'はt'に真である
ここではPastという演算子は、メタ言語における時点への存在量化によって分析されている。ところが、自然言語の過去時制はこういう風に働いていない。「ジョンはストーブを倒した」は、文脈によって定まる、ある特定の時点のことを述べている。
特に以下のような文を考えよう。「昨日ジョンはパーティを開いた。アニーが酔っぱらった。」この文は、直観的には、最初の文によってある一つの時点が選び出され、次の文はその時点のことについて述べているように思われる。
また、もし過去時制と「昨日」がどちらも文演算子であるとすれば、「昨日ジョンはストーブを倒した」は演算子のスコープに応じて二つの読みをもつはずだが、どうやっても二つの読みは生じない。
また、普通の量化に見られるように、先行する量化子をさらなる記述によって制限することは時制の場合もよく見られる。「2年前のある日、ジョンはストーブをたおした」。
また「いつか、今生きているすべての人は死ぬ」のような文は演算子だと分析が難しい。表現できないことはないが、かなり複雑な演算子を導入しなければならない。一方、対象言語で時点に関する量化を認めればあっさり表現できる。
問題は、文演算子が対象言語の量化や指示に比べて表現力が落ちるということではない。アドホックな演算子を認めれば何でも表現できる。問題はそれが統語の構造にほとんど対応しないアドホックなものであることだ。実際、複数の時制の相互作用のような複雑なデータを分析する際、ほとんどの意味論者や言語学者は時制を文演算子として扱っていない。キングは、これらは、時制は文演算子ではないと考える十分な経験的なデータだと議論している。