Seth Yalcin「認識様相」

http://philpapers.org/rec/YALEM
Yalcin, Seth (2007). Epistemic Modals. Mind 116 (464):983-1026.

「…かもしれない」など認識様相の意味論。

  • 1. 問題
  • 2. 認識的可能性の関係的意味論
  • 3. 認識的可能性のドメイン意味論
  • 4. 帰結
  • 5. 内容とコミュニケーション
  • 6. 認識必然演算子
  • 7. 確率演算子
  • 8. 特に大事な問題

問題

「…かもしれない」の直観的な意味は、Pの可能性はまだ生きているというものだ。ある前提となる情報の集合を置いた場合、Pの可能性は排除されていないという感じ。
「かもしれない」など、認識様相の意味論は、不確かな情報をもとに判断するというのがどんなことかを考える上で重要なものだ。問題は、そうやって不確かな情報をもとに判断する際、私たちはいったい何をやっているのかということ。


著者は「雨が降っているが、雨が降っていないかもしれない」(P & \diamond \neg P)はなぜ矛盾して聞こえるのかという問題を扱っている(あるいは\neg P & \diamond Pでもいい)。これは何か矛盾したことを言っているように聞こえる。

これは一見すると有名なムーアのパラドックス「雨が降っているが、雨が降っていると私は知らない」に似ている。この文が真になる状況もあるはずだが、これを主張すると、何か矛盾したことを言っているように聞こえる。
ムーアのパラドックスの標準的な解決は次のようなものだ。一般に何かを主張する人は、自分がそれを知っているんだということを表現する。だから、「雨が降っている」と「雨が降っていると私は知らない」の連言は矛盾して聞こえる。一見すると、上の「かもしれない」文も同じように考えられそうだ。

ところが、ムーア文自体が矛盾して聞こえるとしても、ムーア文を埋め込んだ下の文はまったく矛盾していないし、これを適切に使用できる状況もあるだろう。人は、何かが事実であるが自分はそれを知らないと主張することはできないが、想像することくらいはできる。

「雨が降っているが、雨が降っているとは知らないと仮定してみよう」Suppose(\lceil P &  \neg K P \rceil)
「雨が降っているが、雨が降っていると自分は知らないとジョンは想像している」Imagine(j, \lceil P &  \neg K P \rceil)
「雨が降っているが、雨が降っていると知らないのであれば、私の知らない事実がある」P &  \neg K P \to ...


一方、「かもしれない」を埋め込んだこれらの文が何を言っているか理解できるだろうか。

「雨が降っているが、雨が降っていないかもしれないと仮定してみよう」Suppose(\lceil P &  \diamond \neg P \rceil)
「雨が降っているが、雨が降っていないかもしれないとジョンは想像している」Imagine(j, \lceil P &  \diamond \neg P \rceil)
「雨が降っているが、雨が降っていないかもしれないのであれば、...」P &  \diamond \neg P \to ...

これは元の文と同じように矛盾したままだ。「雨が降っているが、雨が降っていないかもしれないと仮定してみよう」と言われても、いったいどういう状況を想定すればいいのか。雨が降っている状況なのか? それとも雨が降っていない状況なのか? おそらく、無理やり想像しようとすればさっきのムーア文と同じようなことを想像することになるだろう。でも、これはそれとはちがったことを言っているように思われる。


この説明は実はかなり難しい。ジレンマの片方は、上のように「Pだが、Pでないかもしれない」が想像さえできない可能性だということ。
もう片方は、それが真ではありえないのもおかしいということ。
仮に「雨が降っている」と「雨が降っていないかもしれない」は実際矛盾していて、その両方を真にする状況がいっさい存在しないとしよう( \diamond \neg P \wedge  P \vdash \perp)。「雨が降っていないかもしれない」を真にするいかなる状態も、「雨が降っている」を真にしない。しかしそれは要するに、「雨が降っていないかもしれない」から「雨が降っていない」を推論できるってことだ。その場合、「Pでないかもしれない」はただの「Pでない」と同じことになってしまう( \diamond \neg P \vdash  \neg P)。
これは「かもしれない」の適切な意味論ではない。これは「Pかもしれない」を「P」につぶしてしまっている。「Pかもしれない」と「Pでない」が両立するような状況は確かにあると想定しないとおかしい。しかし、それなら、なぜその可能性を想像できないのか。


文脈依存的表現を含む文で、矛盾していないが使用すると常に偽になる文というものは結構ある。例えば「私は今ここにいない」。でも、この種の「文脈依存的な矛盾」は他の文への埋め込みによって消える。「私は今ここにいないとジョンは想像している」は別に矛盾していないし、真であることもある。「私が今ここにいないと私は想像してみている」でも大丈夫だ。想像さえ不可能になるケースは実はそんなにない。

解決へ

「かもしれない」は何を意味しているのか。「雨が降っていないかもしれない」は、何か世界についての事実を述べていると言うより、話し手の心の状態について述べているように聞こえる。「私の知識は雨が降っていないことを排除しない」とかそういうことを言っているように聞こえる。
そうなると、「雨が降っていないかもしれないと想像してみてください」は、自分がそういう心の状態にあると想像してみてくださいと言っているのかもしれない。しかし、これも正しい分析ではないはずだ。問題の文は「あなたの知識は雨が降っていないことを排除しない。でも実際は雨が降っていると想像してください」と言っているわけではない。だってこれは矛盾していないから。私たちはこの想像たやすく実行できる。想像の中の私は知らないが、ある可能性が実現しているというだけだ。
問題の文はこれに似ているがもっと違うことを意味している。比喩的に言うと、「Pかもしれないと想像してください」は、想像の外の人への命令だ。「今この想像においては、Pの可能性は生きていると想定してください」と言っている。想像の内容ではなく、想像の仕方を特定していると考えられる。これが「かもしれない」と「想像」の正しいインタラクションだとすると、問題になっていた文の矛盾はうまく説明できる。「この想像においては、非Pの可能性は生きていると想定してください。でもPであるような状況を想像してください」は確かに矛盾した命令だ*1


想像はそれでいいとしても、やばいのは、「ならば」の条件文でも同じことが起きる点だ*2。「雨が降っているかもしれないし、雨が降っていないならば…」もやっぱり矛盾して聞こえる。ただし、これも実は同じように説明できる。「PならばQ」には「Pと仮定すればQ」といった意味合いがある。つまり、問題の文がうまく想像したり仮定できない文なのであれば、「ならば」とともに使えなくてもある意味当然である。
ところが「ならば」を変えることは、論理的推論そのものを変えることでもある。著者の意味論だと、「ならば」は「かもしれない」などとインタラクションするので、古典論理の真理関数的な「ならば」ではなくなる。これに対応して、真偽ではなく、情報を保持する論理的帰結というものを想定することができる。
著者は「雨が降っている」から「雨が降っていないかもしれない」の否定を導けるような論理的帰結の捉え方を提案している。これはある情報を前提として受け入れていることから、どんな結論の受け入れに進めるかを表現する。


あと、情報とのインタラクションで変なことが起きる現象って、「かもしれない」みたいな認識様相ではっきり現れるけど、実は「べき」とか価値評価系の表現の多くでも現れる。条件文と義務に関する問題の一部がこれに由来している可能性がある。
だから認識様相大事。超大事。

*1:この辺、完全に自分の言葉で書いているが、もとの論文ではもっとずっと形式的に説明されている。おおまかに言うと、この文脈依存性は到達可能性関係を使った可能世界意味論ではうまく扱えなくて、情報の集合を評価環境に置かないといけない

*2:ちなみにこの「ならば」は仮定法/反事実的条件法ではなく普通の直接法なのでそこは気をつけて