Sthephen Shiffer「言語によって作られた言語から独立したもの」

Shiffer, Stephen (1996). Language-Created Language-Independent Entities. Philosophical Topics 24 (1):149-167._
http://philpapers.org/rec/SHILLE

命題や性質の存在論について、フィクショナルキャラクターについての創造物説と比較しつつ議論している。


Shifferによればある意味では命題は言語から独立したものだ。フィドーが犬ならばフィドーが犬であることは真である。それは人間が「フィドーは犬だ」と言ったから存在するわけではない。命題の存在条件には人間の発話や思考は入っていない。
しかしある意味ではそれは言語によって作り出されたものだ。命題が存在するとは、われわれがある種の語り方をするということ、それ以上でも以下でもない。命題なるものが存在するのは、われわれが例えば「フィドーが犬であることは真だ」といった語り方を認めているためである。


フィクショナルキャラクターも事情は似ていて、フィクショナルキャラクターは、フィクションが語られれば存在する。しかしそれが存在するということは、われわれがある種の語り方、つまり「このキャラクターはよくできている」といった語り方をすることに他ならない。存在の条件と、後者のような存在の基礎付けは別だというわけだ。


命題や性質やフィクショナルキャラクターは、犬や木や人とは違う。自然種と違い、これら言語の産物の本質は、われわれの語り方の中にアプリオリに見出すことができる。
また、われわれの語り方は時に矛盾さえする。例えば、性質を全面的に認めると、ラッセルパラドックスなどが起きる。だからわれわれの慣習は完全に一貫したものではないが、だいたいのケースでは役に立つし、別にそれでかまわないだろう。

感想

命題や性質の存在の条件は、言語からも思考からも独立していることを認めつつ、ある意味でそれが存在するのはある種の慣習に依拠していると認める立場をとっている。おもしろい立場だと思うけど、後者のような言語への依拠をどう特徴づけるかは難しい。Shifferにとって、命題は人がいない世界にも存在するので、それは様相的な条件でもないし、時間的な条件でもない。ある種の慣習のもとで生きている人にとってのみ、その存在が意味を持つみたいな感じ。