http://philpapers.org/rec/KANATU
Kania, Andrew (2005). Against the ubiquity of fictional narrators. Journal of Aesthetics and Art Criticism 63 (1):47–54.
すべてのフィクション作品には虚構の語り手がいるというテーゼ(遍在テーゼ)への批判。
直接的には、レヴィンソンの存在論的ギャップからの議論を批判している。
存在論的ギャップからの議論は以下のようなもの。
- ポジティブパート
- われわれがフィクションに接する時、フィクション世界の情報はどのように与えられるのか? これに対する妥当な説明は、何らかの行為者がこの情報を与えたというもの。
- ネガティブパート
- 現実の制作者など、現実世界の住人はフィクション世界内の情報にアクセスできない(存在論的ギャップ)。従って、フィクション世界の情報を与える者は虚構の語り手でなければならない。
われわれがフィクション世界について何か知ってるということは、その情報を与えたものがいるのでなければならない。しかもそれはフィクション世界の住人でなければならない。従って、すべてのフィクションに虚構の語り手がいる、という議論。
ポジティブパートに対するKaniaの批判。「われわれに、どのようにしてフィクション世界内の情報が与えられたのか説明されねばならない」という要請がそもそもおかしい。情報ソースについて説明する必要があるならば、「虚構の語り手がそれを与えた」というだけで説明が終わるのはなぜか。「ではその虚構の語り手はそれをどこで知ったのか? なんでそんなことを知っているのか?」という問いに答えなくていいのか? レヴィンソンは恣意的に説明を打ち切っている。
ネガティブパートに対するKaniaの批判。存在論的ギャップ(現実世界の住人はフィクション世界の情報にアクセスできない)を認めたとしよう。この場合、虚構の語り手がフィクション世界内の情報にアクセスできるのはいいとして、虚構の語り手はそれをどうやってわれわれに伝えるのか? 現実世界の住人であるわれわれが虚構の語り手が与える情報にアクセスできるなら、そもそも最初から存在論的ギャップなど問題にしなくていいのではないか。
現実の制作者は、規約によってフィクション世界の情報を与えられる。虚構の語り手は明示的に書かれている時はいるが、常にいるわけではない。それで別に何の問題もないだろうと。