以下の本に入ってる論文を順番に読んでるのだけど、これで何本目かな。
The Poetics, Aesthetics, and Philosophy of Narrative (Journal of Aesthetics and Art Criticism)
http://philpapers.org/rec/DIEIRT
Diehl, Nicholas (2009). Imagining De Re and the Symmetry Thesis of Narration. Journal of Aesthetics and Art Criticism 67 (1):15-24.
用語:
- De Re的な想像
- 特定の「もの」についての想像。例えば、ごっこ遊びにおいて、特定の棒が剣であることを想像する。
背景として、映画には小説などと違って、暗黙の想像上の語り手は存在しないという議論があるらしい(CurrieとGautがそういう批判をしているらしい)。これは、現実の監督が語り手であることを否定するわけではなく、監督以外のフィクショナルな語り手を措定するのはおかしいという話のようだ。
映画の語り手の否定論は次のようなもの:
仮に、映画の語り手がいるとすれば、映画の語り手は、どういう手段で語るのだろう。映画だろうか? そうだとすると、私たちは想像上の語り手が、複数のカメラを操作し、サウンドトラックを作成し、映画を作って自分たちに語りかけているといった想像をしていることになる。しかし、私たちがそんな想像をしていることはありそうにない。
小説の場合、暗黙の語り手は常に存在するのかもしれないが、映画にはこの対応物はない。
一方Diehlは、少なくとも、映画に明示的なフィクショナルな語り手がいるケースがあることを指摘している。Diehlが注目するのは、ある種のフィクショナルな語り手が、多くのメディアに表れることである。
Diehlがいうフィクショナルな語り手は以下のようなものだ。
例えば、映画の『ブレアウィッチプロジェクト』のような架空のドキュメンタリーでは、作中の登場人物が映像の制作者であることになっている。
同様に、小説の『指輪物語』は登場人物であるフロドがそのテキストを書いたことになっている。
あと、マンガだと、確か『岸辺露伴は動かない』は主人公である岸辺露伴自身がマンガを描いているという設定になっていた気がする(うろ覚えなので違ったかも)。
小説、映画、マンガの他、Diehlは、ダンサーがマリオネットを演じ、架空の操者による物語を展開するというダンスの例をあげている。
少なくとも、これらのケースでは、フィクショナルな語り手は存在する。
Diehlによれば、以下の必要十分条件はメディア横断的に成り立つし、多くのメディアではフィクショナルな語り手がフィクショナルなテキストを語ることが可能である。
(ちなみにすべての形式で成り立つとは言っておらず、例えば手で動物の影をつくる芸のフィクショナルな語り手は難しいかもしれないと言っている)。
フィクションの物語作品Nはフィクショナルな語り手を持つ iff 私たちはNのテキストそれ自体について、そのテキストがNによって生み出されたフィクション世界の中で生じていることを、De Re的に想像するよう指図される。
必要性(フィクショナルなテキストがあるならば、フィクショナルな語り手がいる)については、Diehlは、物語には常に語り手がいるという主張を擁護している。
十分性(フィクショナルな語り手がいるならば、フィクショナルなテキストがある)の擁護は以下のようなものだ。
フィクショナルな語り手がいるならば、その語り手は、語りに責任を負うはずだ。しかも問題になっているフィクショナルな語り手は、作品全体のストーリーを語っていることになっている。つまり、フィクショナルな語り手が責任を負う対象があるとすれば、それは作品のテキストでなければならない。
上であげた『指輪物語』のような事例はわかりやすいが、Diehlは、もう少し範囲を広げたいらしい。例えば、『ハックルベリーフィン』のような一人称の小説では、作中人物がフィクショナルな語り手である。
しかし語り手であるハックは、このテキストを書いているのか、喋っているのか、それとも心の声みたいなものなのかははっきりしない。しかし、こういうケースでも、ハックは個々の表現などに責任を負うと見なされるだろうし、やはりハックがフィクショナルなテキストのフィクショナルな語り手であるという。
また、Diehlは、小説内挿話や映画内映画など、埋め込まれた物語でも、同様にフィクショナルな語り手とフィクショナルなテキストを措定できるという。
「涼宮ハルヒの憂鬱」のアニメで、ハルヒたちが作った映画が流れるエピソードがあったけど、おそらく、ああいうのがこれに当たるだろう。例えば、涼宮ハルヒの映画の場合、カメラがぶれていたりなど、素人の映画らしく作られてるのだが、その辺の責任は、フィクション内でハルヒたちに帰属されるというのは自然な感じだ。
ただ、映画の場合はちょっと複雑で、映像が他の形式の物語の表象である場合がある。例えば、おじいちゃんの思い出話がはじまる→思い出話が映像として流れるというケース。
Diehlは、このケースでは、おじいちゃんがこの映像に責任を負うとは言えないし、おじいちゃんは映像のフィクショナルな語り手ではないとしている。
(確かにおじいちゃんがこのシーンのカメラワークやサウンドトラックに責任を負うのは変なのだが、事実関係の誤りなどはおじいちゃんの責任になりそうな気もする。たとえるなら、おじいちゃん原作映画みたいな感じか?)。
一方、おじいちゃんの語りが映画内でそのまま流れるなら、おじいちゃんはフィクショナルなテキストのフィクショナルな語り手と見なすことができる。この場合は、映画内にサブストーリーとして、口語による語りが埋め込まれている。
この論文では、こうした語り手を形式横断的に比較することは興味深いということで、様々な形式における語り手というアイデアを擁護している。