Jホラーと怪談収集小説

ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在』が出たので、掲載した論考「Jホラーの何が心霊実話なのか?——実話怪談、ドキュメンタリー、心霊写真」の補遺的な話を書く。

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳ももうすぐ出ます。

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Jホラーと呪われた映像

ユリイカ』に書いた文章では、「呪われた映像」「心霊映像」がJホラーの重要なモチーフのひとつであるという話を書いた。また、そのモチーフがフェイク・ドキュメンタリー、ファウンド・フッテージ、POVといった手法と相性が良いという点に触れた。このモチーフの一番有名な例は言うまでもなく『リング』の呪いのビデオだが、Jホラーをある程度観たことがある人なら知っているように、「心霊映像」くらいまで広げて考えると、事例は本当に無数にある*1。最近だと例えば『呪詛』にもそのようなモチーフがあった*2

ユリイカ』でも書いたが、こうした手法の由来のひとつはおそらく、Jホラーの作り手がよく言及する「心霊写真的な怖さ」だと思われる。心霊写真というのは、単に怖いものが写っている写真というだけではなく、写真自体が、触れたり見たりするだけで呪われそうな感じがして忌避される。つまり、表象対象から表象媒体に呪いが伝染するように感じられるわけだ。

これを映像に置き換えた際に重要なのは、映像は、映画の作中で文字通り上演できるということだ。よくあるパターンとしては、作中で、「いやー、なんかこの映像、ヤバいものが映ってて、見ると本当によくないことがあるんで、絶対に見ない方がいいと思うんですが……」と言った後で、上演するなど。当然映像の内容自体もいかにも呪われそうな不吉な映像になっていることが多い。

もちろん映画の中で流れるのは、単に「呪われている映像」「心霊映像」という設定の映画の映像にすぎないわけだが、映像の内容も相まって、何となく鑑賞者である自分の方にまで呪いが伝染しそうないやーな感じがする。この決定版は、映像から文字通り「出てくる」という演出をやった『リング』だが。

怪談収集小説と呪われたテキスト

ユリイカ』の註で、この手法の小説版がどのようなものになるかという話に少し触れた。

今から考えると『リング』の原作版というのは少し不思議な部分があって、「どうして小説なのに呪いのビデオなんて設定にしたのか? 作中で上演できないのに」と思わないでもない。そういう効果のことは意図していなかったのだと思うが、上演した方がいいというのは映画版が証明したわけで、そう考えると『リング』は映画化によってはじめて完成した作品という感じがする(原作の良さはそこではないというだけの話かもしれないが)。

小説でこれと似た手法をやるなら、登場するのは「呪われた映像」ではなく「呪われたテキスト」にしなければならない。「はて、そういう小説があったか?」と考えて、『ユリイカ』では三津田信三の『どこの家にも怖いものはいる』をあげた。

だが『ユリイカ』の原稿を書いた後に気づいたが、この種の手法を取り入れた小説はもっとたくさんあるし、すでにジャンルとして成立しているのではないか。代表作をあげると、三津田信三『どこの家にも怖いものはいる』(2014)などの「幽霊屋敷シリーズ」、小野不由美残穢』(2012)、芦花公園『ほねがらみ』(2021)などがそうだ。こうしてあげてみると傑作が並ぶし、これは2010年以降の日本のホラー小説で特に盛り上がったジャンルなのかもしれない。このジャンルに特に名前はついていないと思うので、とりあえず「怪談収集小説」と呼ぶ。

怪談収集小説の特徴は以下。もちろん、中身はかなりバリエーションがあるし、以下の条件のうちひとつかふたつだけ満たすというパターンのものもある。

  1. 語り手は怪談を収集し、一見関係がないと思われた複数の怪談が、実はひとつの共通の背景をもっていることに気がついていく。『ほねがらみ』で言うところの「ひとつの映画をバラバラに見せられているような感覚」*3
  2. 怪談の真相に近づくにつれ、語り手や、その周辺の人々が何らかの悪い影響を受けていく。つまり、呪われる。
  3. しばしば、フェイク・ドキュメンタリー、ファウンド・フッテージなどの手法を導入する。

先ほどの映画でよくあるパターンになぞらえて説明すると、作中で、「いやー、なんかこの怪談どうもヤバそうで、読むとよくないことがあるんで、読まない方がいいと思うんですが……」と言った後で、怪談を掲載する。当然怪談の内容自体もいかにも呪われそうな不吉な内容になっていることが多い。

つまり「呪われたテキスト」の具体例は「読むとさわりのある怪談」として実装されていることが多いように思う。『どこの家にも怖いものはいる』『残穢』の場合、悪い影響の部分は『リング』などに比べるとマイルドだが。呪いの破壊力という意味では『ほねがらみ』が一番『リング』に近いかもしれない。

3の部分は、具体的にどういうことかというと、作者ないし、作者の分身的な語り手が設定されていたり(フェイク・ドキュメンタリー)、誰かが残した手記など(ファウンド・フッテージ)が登場する*4

少しおもしろいなと思うのは、この手の手法は、メディア固有的なものなので、フェイク・ドキュメンタリー小説である『残穢』の映画版は、フェイク・ドキュメンタリー映画にはならない。小野不由美の分身と思われる小説家の「わたし」は、小説版『残穢』を書いているが、映画版『残穢』を作っているわけではないので。

あと一応断わっておきたいが、怪談収集小説がJホラーからすごく影響を受けていると言いたいわけではない(影響は多少ありそうだが)。実際には実話怪談、ネット怪談の影響の方が大きいかもしれない。単に似た効果を実現しているというだけだ。

「呪われメディア」と見立て

これは『ユリイカ』に書こうかなと思って触れなかったが、この手の手法は、ケンダル・ウォルトンが「想像の対象」や「de re想像」と呼んだものの具体例と考えることができる。これは要するに、フィクションやごっこ遊びの中で、現実にあるものを、別のもの(ないし別の属性をもつもの)に見立てる「見立て」のことだ。

ウォルトンがあげている具体例は、ごっこ遊びの中で人形を赤ちゃんに見立てる例などだが、他にも『ガリヴァー旅行記』の例があげられている(p.354, 邦訳p.347)。『ガリヴァー旅行記』のテキストは作中では、ガリヴァーが書いた航海日誌であるという設定になっている。現実にはジョナサン・スウィフトが書いた小説であるわけだが、それが作中で〈ガリヴァーが書いた航海日誌〉という属性を付与するような見立てが行なわれている。

同じように、『リング』の呪いのビデオの映像も、作中で〈呪われている〉という属性が付与されているし、『残穢』の怪談もそうだ。もっと別種の例をあげれば、お化け屋敷で、呪われているという設定の人形が置いてあれば、これに近い効果をあげるかもしれない。実際あるのかどうか知らないが、「呪いの人形」という設定の人形に触れないと先に進めないお化け屋敷があれば、結構おもしろいかもしれない。

ウォルトンによれば、見立てのメリットは、想像に「鮮烈さvivacity」を与えるところにある。つまり、何か具体的な手触りのある「モノ感」「そこにある感」みたいなのを与える。そして実際、Jホラーや怪談収集小説の「呪われメディア」は、目の前の媒体が「呪われている」という属性を虚構的に付与することで、この具体的な手触りをうまく使っていると思う。

*1:おそらくこのモチーフに特にこだわっていたのは『女優霊』『リング』の脚本家高橋洋だろう。エッセイなどでも「見たら死ぬ映画」に関する想像を書いていたりするので「見ると死ぬ映像」というのは、彼の中では映画の象徴のようなものなのかもしれないとも思う。

*2:『呪詛』は台湾映画だがJホラーの影響があるのは確かなので。

*3:『ほねがらみ』は変な小説なので、作中で、このジャンルの先駆を紹介したり、ジャンルの魅力を説明したりしている。

*4:「残された手記」自体はホラー小説で昔からある手法なので、わざわざ映画になぞらえて「小説版ファウンド・フッテージ」のように呼ぶのも変かもしれないが、ここでは映画と比較しているのでそういう表現になる。