ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(4)

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます。

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ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在にも書いています。

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第一回

第二回

第三回

紹介 - 「ホラー」の世代差

短かい小ネタを書いた方が読む方も書く方も楽でいいだろうと思ったので小ネタを書くことにしました。

実は、先にホラーの定義の箇所を紹介しようと思ったんですが、ホラーの定義論をする際に気になる問題があります。世代によってホラーの典型的イメージがかなりちがうという問題です。

わたしが何となく仮説としてもっているのは「人間は、自分が子どもの頃に流行っていたホラー映画を、ホラーの典型例だと思い込む傾向がある」というものです。例えば、わたし自身は「ホラー」と聞くと、まず『13日の金曜日』シリーズのようなスラッシャーホラー、スプラッターホラーをイメージします。だいたい『13日の金曜日』のジェイソンか、『エルム街の悪夢』のフレディのイメージです。なぜかというと子どもの頃にそれが流行っていたからです。といっても、実際に子どもの頃に『13日の金曜日』を観たかというと、そんな記憶はなく、アニメなどで、ホッケーマスクをかぶり、チェンソーをもったジェイソンの姿が「ホラーっぽいアイコン」として引用され、それが「怖いもの」として印象に残っているせいだと思います(実際はジェイソンはチェンソーをもっていないというのは後に知りました)。

しかしこれが普遍的なイメージかというと明らかにそんなことはないわけですね。スラッシャー映画が流行ったのは『悪魔のいけにえ』(1974)など以降ですし、現在スラッシャー映画がたくさん作られているかというと、そうでもない。ちなみに、もっと若い人に聞いてみたところ、「ホラー」と聞くと、典型的に思い浮かぶのは貞子や俊雄で、スプラッターなどはむしろホラーではないイメージ(ジェイソンは言われれば何となくホラーっぽいものというイメージはある)と言われました。

さらに歴史をさかのぼると、30年代のホラー映画は『魔人ドラキュラ』や『フランケンシュタイン』だし、50年代のホラー映画は、SFホラー映画ばかりなので、もっと上の世代になるとそういうイメージの人もいるでしょう。

さらに日本語の場合、「ホラー」は外来語で、日本語として普及したのもわりと歴史が浅いらしく(Wikipediaには90年代と書いてありました)、その辺のねじれもあるのかなと思っています。これは本当にただの推測ですが、外来語であるがゆえに、新規なもの・刺激が強いものをイメージさせやすいかもしれません。

日本語には「怪奇」という語もあって、こちらの方が歴史も古いです。現在では、おおむね「怪奇」の方が「ホラー」より広いジャンルという風に使いわけられているようです。おそらく——境界は非常に曖昧ですが——、吸血鬼もの、妖怪ものなどは「ホラー」ではなく「怪奇」という感じでしょうか。一方で、これは訳者解説にも書いたんですが、『ホラーの哲学』でいう「ホラー」はむしろ「怪奇」の方が近いのではないかと思います*1。めちゃくちゃ怖いものだけではなく、ちょっと不気味なものが出てくるくらいでもホラーに入るイメージです。

本書に出てくるホラー作品の紹介コーナー

ドン・シーゲル監督の『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』を紹介します。キャロルが「宇宙憑依もの」と呼んでいるジャンルの一作です。周囲の人々が知らない間に宇宙人が作った偽物(ないし変身する宇宙人)に置き換えられていくというやつです。冷戦期にこの手の映画がいくつも作られていて、当時は赤狩りの時代なので、共産主義の隠喩とも言われたりしています。

翻訳中にこの時代のこの手の映画をいくつか観たんですが(『宇宙船の襲来』『それは外宇宙からやってきた』など)、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』以外はそれほどおもしろいものではないので別に見なくてもいいと思います。

『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』だけは今見てもかなり不気味ですね。人間の偽物がサヤエンドウのような鞘に入れられて運ばれてくるのですが、人間の偽物が入った鞘を運んでくるトラックの存在が、嫌な都市伝説みたいな感触です。作中の出来事が主人公の回想として基本的にすべて過去形で語られるというのも効果的だと思います。

*1:じゃあ「ホラー」ではなく「怪奇」と訳した方がいいんじゃないかというのも少し考えたんですが、「ホラー」をすべて「怪奇」と訳すと意味が通じなくなる箇所も大量に出てくるので無理でした。あと怪奇というと横溝正史の作品などをイメージする可能性もある気がするんですが、それはキャロルがいう「ホラー」とも違うので、やっぱり「怪奇」だとだめですね。