David Davies「ウィルソンの『捉えにくい語り手』を追い払う」

http://philpapers.org/rec/DAVEWE
Davies, David (2010). Eluding Wilson's “elusive narrators”. Philosophical Studies 147 (3):387 - 394.


ウィルソンに反論している論文。
ウィルソンの論文については↓
George Wilson「文学と映画の捉えにくい語り手」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


哲学者の思考実験の例をあげ、「現実に、虚構的にPと提示する」ことは意味をなすだろうと反論している。哲学の思考実験では、読者はある状況を想像するように求められるが、思考実験を理解するために誰かがその状況を語っていると想像する必要はない。
しかしこれはウィルソンの議論に制限を与えるものではあるかもしれないが、どれくらい反論になっているか微妙。小説のケースで虚構の語り手を想定したくなるのは、小説というものが長く、その語りの中で複雑な言語行為がなされるからだ。この点で、思考実験とのアナロジーはそもそも成り立っていない。ただし、ウィルソンの議論はフィクションなら何でもあてはまるわけではないということならその通りだとは思う。


以下は私の意見だが、少なくとも、普通の語用論が考えるような言語理解のモデルが正しいものだとすると、小説に虚構の語り手を想定することはもっともらしいと思う。いわゆる推論モデルを適用できるためには、何らかの行為者を想定する必要があるからだ。たとえば「皮肉」や「含み」を理解するためには、発話者の意図を推論する必要があるだろう。そしてこの「発話者」は虚構内の語り手だと考えることが自然だと思う。
小説とそれ以外の文章で、含みの理解などに大きな違いがあると考えるのはまあおかしな話だ。また昔サールがフィクションに対応する一種類の言語行為があると考えるのはおかしいという有名な批判をしているが、もしウィルソンの議論が妥当なら、虚構の語り手に反対する者は、このサールの批判に答えないといけないように思う。


一方、普通の映画や思考実験の場合には虚構の語り手は存在しないということでいいんじゃないかと思う。これは映像や思考実験に関して、そんな複雑な語用論的推論が適用されないだろうから。