ピーター・ラマルク『物語の不透明性』

The Opacity of NarrativeThe Opacity of Narrative


http://philpapers.org/rec/LAMTOO-3
Lamarque, Peter (2014). The Opacity of Narrative. Rowman & Littlefield International.

少し前にラマルクの『物語の不透明性』を読み終わった。読んだけど難しくて議論がつかめないので一部再読したりなどしていた。
ラマルクは近代的な芸術観みたいなのが強くて個人的にはちょっと苦手。多分この人は「フィクション」よりも「物語」よりも「文学」に興味があるんだろう。まあその分モチベーションははっきりしているし、重要なことも言っていると思う。


タイトルにもなっている物語の不透明性とは、文学作品の内容は、提示の仕方から切り離すことができないという主張だ。
文学的フィクションの場合、キャラクターやストーリーは物語による提示のモードによって構成される。その同一性は記述に本質的に結びついている。キャラクターやストーリーを作品の文体やムードから切り離すことはできない。文学作品の内容は、単なる事実の集合みたいなものではなく、その提示のされ方を本質的な構成要素とする。単に内容と形式を切り離せないというだけではなく、提示と本質的に結びついた観念みたいな存在者があるという主張らしい(ラマルクはこれを「思想」とも呼んでいる)。


二次創作やメディア間の移植はどうなるのかというと、厳密にはそんなことはできない。
ラマルクは内容の同一性の基準は関心に相対的に変化するという立場をとっている。例えば、薔薇戦争に関心があれば、その関心のもとでは、薔薇戦争を描いた二つの作品は同じ内容を持つかもしれない。しかし、それは非常に粗い基準だ。
複数の作家の複数の作品がキャラクターやストーリーを共有するというのは、ある関心に相対的にそうだというだけである。
一方で文学的関心は非常に目の細かい同一性の基準を要求する。文学固有の関心によって文学と深く向き合うと、もはやキャラクターやストーリーを作品と切り離すことはできない。
この本では、物語の不透明性のテーゼをいろんな形で展開していて、フィクションの認知的価値の話にも、フィクションと感情の話にも結びつけられる。

コメント

変だなと思うのは、この立場だと、小説版と映画版は同じストーリーだと言う時や、同じキャラクターが出てくると言う時、私たちは非文学的な態度を取っていることになる。ある種粗雑な態度を取ることで、抽象化し、厳密には同じでないものを同じであると言っていることになる。


個人的には、ラマルクの主張のうち、以下の二つは認めたいんだけど、

  • 1. 文学に固有の態度は内容と形式を切り離さずに鑑賞することである。
  • 2. 内容の同一性基準は文脈によって変化する。

ラマルクがそこから結論しようとする「厳密な移植はできない」とか「提示と結びついた内容だけが本当の内容だ」といった結論は受け入れたくない。
何が変かなと思って考えていたが、文学的鑑賞や評価に固有の文脈がただ一つあるという前提がおかしいと思う。鑑賞の際も、描かれていることをいろいろなレベルで見るのが普通だろう。例えば、ガーディアンズオブギャラクシーの映画を観る時(私はガーディアンズオブギャラクシー大好きで劇場に三回観に行ったのだけど)、ピーター・クイルの描き方が原作とどう違うかは評価に関係するだろう。そこでは間作品的な見方も、映画の固有性を見るのも、両方使うと思う。
あと、この話は科哲の発表でもするけど、キャラクターが同一だって言うのはフィクション内の話で、基準が文脈によって変化するというのはフィクション外の話だから、別に矛盾しないと思っている。