アリストテレス『形而上学』のΖ巻とΗ巻を読んだ。錯綜した議論に頭が痛くなっていたので、以下の本をちょっと読んだ。序を読んだら明快だったので図にまとめたりしていた。
(アリストテレスのことは何も知りません)
Primary Ousia: An Essay on Aristotle's Metaphysics Z and H
さて、Ζ巻およびそれにつづくΗ巻のテーマは、「ある」ということについてだ。ここでは、実体(ウーシア)(存在の典型と言われるもの)に関してその存在が論じられる。『形而上学』のメインと言ってもよい部分である。
だが、実体の話の前にアリストテレスが性質をもつこと(述定predication)についてどう考えていたか説明しなければならない。
現代哲学で存在を考慮するにあたって特権的な形式が量化であるのに対し、アリストテレスにとって存在を考慮する特権的な形式は述定であり、述定の分類を通して存在が語られるからだ。
アリストテレスは、個物が種に属することと、偶有的性質をもつことを厳密に区別しており、前者が「ある」に深く関わるものである。種は(特に自然種は)、そのものの本質=何であるか(WHAT)に対応するものだ。例えばソクラテスとは何か? 人である。ポチは? 犬である。
一方、白いとか知識があるとか毛が生えているといった偶有的な特徴は、そのもののいかにあるか?(HOW)に対応する。
典型的に存在するのは、人であるとか、犬であるとか言われるかぎりのものであって、「白いもの」とか「毛が生えているもの」などではない。
アリストテレスは『範疇論』では、個々の人や犬こそが実体であるとしていたらしいのだが、『形而上学』では、素材(matter)と形相(form)による分析が導入され、事態はもっと複雑になる*1。
個物は、素材が構造的な性質(形相)をもつことによってできあがる。さらに太郎が人という種に属することの原因は、太郎を組成する素材が特定の形相をもつことであるとされる*2。素材と形相の関係は、偶有的な関係である。形相をもつのは太郎自身ではなく、素材であり、太郎は素材と形相の複合体である。また、太郎を構成する素材と形相は、太郎以前から、そして太郎の死後も存続する。
素材と形相の関係は、それ自体は偶有的であるにもかかわらず、それによって種の述定という存在にとって特別な関係が説明されるあたりがおもしろい。
では、このうちの何が実体とされるのか?
アリストテレスが実体の基準としてあげるのは、そのものとそのものの本質が同一であるということだ。太郎の本質(何であるか)は〈人間であること〉だが、太郎=〈人間であること〉ではないので、太郎はこの基準では実体と見なされない。一方、形相の本質は、それ自身である*3。また、形相は個物に対して、時間的にも、説明的にも優先するものだ(それは個物以前から存在し、個物が何か(種)であることの原因である)。従って、『形而上学』では形相こそが実体と見なされる(正確には、人間や馬などの種に属する個体の形相が実体にあたる)。
また、アリストテレスは普遍者が実体であるという立場を厳しく批判している。一方、形相は明らかに個物とは区別される性質ライクなものとして捉えている。このため、形相が普遍者なのか、個別的な特徴(トロープ)であるかは、解釈上の大問題で、どっちも支持者がいるらしい。