The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)
三章を読んでからだいぶ時間が経ってしまったが、四章も読んだ。
以前三章を扱ったときの記事は以下。
Williamsonはここで「哲学は概念を扱う」という哲学観を批判している。「哲学は概念を扱う」という立場のコアは「総合的な真理と分析的な真理があって、哲学は分析的なものを扱う」という真理観なので、まずこの「分析的真理」が概念的であるという見解が否定される。
本章では、以下のような意味での分析性が批判される。
分析的真理は、言葉の意味を理解するだけで真であると知ることができる。
これは、ある種の事柄については、狭義の言語能力や言語理解だけで、十分な認識論的地位に到達できるという見解だ。
この構成要素には「分析的真理は、その意味を理解すれば誰もが同意する」というファクターと「分析的真理は、その意味を理解すればそれだけで正当化される」というファクターがある。どちらも否定される。
主要な批判は、言語理解についての全体論に訴えるもので、「狭義の言語能力」を狭くとれば、必要な認識論的地位に届かないし、広くとれば逆に「分析的なものは実質的でない」という見解を維持できない。
言語理解の全体論
ある特定の語の能力ある話者であるための基準に対して、ウィリアムソンはおそらく以下のようなことを考えている。
- 全体的な日本語能力と切り離して、日本語の特定の語に対して言語能力を持つかどうかは判定できない。
- ある特定の語を使用するには、他の話者の使用と因果的にかかわる必要がある(例えば、他の人の使用からその語を学び、他の人とその語を使ってコミュニケーションする)。
- 使用者であるために特定の内容を共有する必要はない。ある語を使用するために、その意味についての特定の理解を共有する必要はない(他の話者とまったく何も共有していない人は、その語を使用しているとは言えないかもしれない。しかし、人によってそれぞれ異なる部分的理解が共有されていればよい)。
例えば、インターネットの影響で、キツネはロボットだという陰謀論を信じ込んでいる人を考えよう。この人は他の人と違ってキツネは動物だと考えてない。この人は「キツネ」という語を他の人とちがう意味で使用しているのか? そうではない。
この人のキツネ理解は他の人と多くのものを共有している(例えば、キツネに尻尾があることには同意するだろう)。さらにこの人は、他の人の「キツネ」使用からこの語を学び、他の人とこの語を使ってコミュニケーションしている。また、日本語で高等教育を受け、日本語で流暢にコミュニケーションする。この人が他の人と違う意味で「キツネ」という語を使用していると考えることはもっともらしくない。
この人が、キツネ概念を持っていないとか、文に他の人と違う思想を結びつけているとかも、同じ理由で拒否される。
同意への反対
「分析的真理は、その意味を理解すれば誰もが同意する」の反例として、ウィリアムソンは変な哲学者の例をいくつかあげる。例えば、「すべてのメギツネはメギツネである」に反対するピーターという人がでてくる。まずピーターはインターネットで変なサイトを見たせいで、キツネは絶滅したと思い込んでいる。さらにピーターは全称量化に対する特殊な立場をとっており、Fなるものがないとき「すべてのFはGだ」は偽だと考える。ピーターは「すべてメギツネはメギツネであるは偽だよ。だって、キツネなんていないんだから」などと言う。
ピーターはおそらく間違っている。しかし少なくとも、ピーターは「すべてのメギツネはメギツネである」に同意しない。同意しないことは知っていないので、ピーターはこの文を理解しているが、この文を知っていない。よって「すべてのメギツネはメギツネである」は、認識論的分析性の基準を満たさない。
ありうる反論は、ピーターの言語能力を否定するものだ。「ピーターはわれわれとは違う意味でこの文を使っており、従ってこの文を理解していない」など。しかし、言語能力についての全体論からはこれは否定される。ピーターは英語を母語としており、英語で高等教育を受け、英語の哲学論文を書くこともできる。にもかかわらず、ピーターが英語を話していないとするのはおかしい。ピーターはわれわれと同じ意味で、「メギツネ」や「すべて」という語を使っている。単に間違ったことを言っているだけだ。
正当化への反対
ウィリアムソンは正当化の議論も全体論によって否定されると考えているようだ。
まず言語能力の全体論から、文の意味理解は、個々人によって異なる形で実現される。「すべてのメギヅネはメギヅネである」を理解する際、太郎の文の理解は、認知能力aによって構成される。次郎の文の理解は、認知能力bによって構成されるなどなど。
しかし、様々な人が、多様な認知能力を駆使することで、「すべてのメギヅネはメギヅネである」を知るとしよう。この場合、この文を知るということは、実質的な認識論的課題になってしまう。この場合も、分析的な真理は、言語能力だけで知ることができる実質的でない知識だという見解は否定される。