http://philpapers.org/rec/JANKAF
Jankowiak, Tim (2013). Kant's Argument for the Principle of Intensive Magnitudes. Kantian Review 18 (3):387-412.
カントの内包量のアイデアが変な世界観で好きなのでこれを読んだ。カントのことは何も知らないのでアレだが記録しておく。
- 序
- 現実性のカテゴリー
- 論証
- 内包量としての感覚
- 因果解釈
- 感覚構成解釈
- 反論と明確化
- 結論
内包量の原理とは?
- 経験のすべての可能な対象は、特定の度合いの実在性をしめす。
- この度合いは連続量・内包量である。
- そのことはアプリオリで超越論的な必然性の問題である。
『純粋理性批判』の原則の分析論の知覚における予期のところで論証されているテーゼだ。
大雑把には、(事物の積極的な規定という意味での)性質例化には、かならず内包量的度合いがあるという主張だと考えていいように思う。 内包量(示強量)の定義はwikipedia参照。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BA%E9%87%8F%E6%80%A7%E3%81%A8%E7%A4%BA%E5%BC%B7%E6%80%A7
もちろん、赤さとか大きさに度合いがあると考えるのは普通だが、これは例外なくあらゆる性質例化に適用される原理であり*1、例えばカントは物質もまた度合いをもつと考えていた。物質の密度は、粒子の分布が混み合う度合いではなく、物質が空間を埋めるということの度合いにあたる。
(弁証論の方ではカントは単純な実体が消えたり分裂したり融合したりする可能性を考えている。おそらくカントの立場は、最近のメレオロジーの用語を使うと、ぴったり位置づくことexact locationに度合いを認める立場として表現できるかもしれない。)
内包量の原理に対するカントの論証は、著者のまとめに従えば以下のようなものだ(純粋理性批判の対応箇所はB207-208)。
- A1. 感覚は現象における実在に対応する。
- A2. 感覚は内包量をもつ。
- よって現象における実在は内包量をもつ。
感覚が内包量をもち、そして実在は感覚に対応するものだから内包量をもつというわけだ。 しかしこれが成り立つかどうかは「対応」をどう解釈するかによる。 著者は感覚構成説という解釈をとっている。これによれば、経験的直観の対象は、感覚の質によって構成される。感覚は経験の素材であるだけではなく現象の素材でもある。
これを明示化すれば、論証は以下のようになる。
- SC1. 感覚(あるいはその質)は内包量をもつ。
- SC2. 直観を構成する感覚の質は、直観によって表象される質と同一である。
- SC3. 直観によって表象される質は現象における実在と同一である。
- よって現象における実在は内包量をもつ。
形式だけ書くと、a is F, a=b, b=c, therefore c is Fということだ。
感覚の質が実在と同一であるという見解、あるいは感覚が経験の対象を構成するという見解は謎めいてもいるが、これはトークン同一性の意味でとることもタイプ同一性の意味でとることもできる。タイプ同一性の方がわかりやすいが、この場合、例えば、赤さを表象する経験は赤さの質をもつ。経験は質的同一性によって対象を表象する。あらゆる知覚に一般化できるかはともかく、これ自体はわりと常識的な立場であると思う。
トークン同一性をとった場合、感覚の個別的状態が文字通りに経験の対象を構成する。いわゆる現象主義や観念論の発想になる。
この辺をどう解釈するかで、超越論的認識論の解釈も変わるだろうと著者は示唆している。
*1:ただし、度合いがあることが原理的に可能でありさえすればよく、現実には度合いが一様であるということも認めてもよいらしい。