Thomas Crowther「出来事という物質」

http://philpapers.org/rec/CROTMO-4
Crowther, Thomas (2011). The Matter of Events. Review of Metaphysics 65 (1):3- 39.

タイトルの訳はこれでいいか微妙。以前難しくて読みかけて放置していたのだが、何とかがんばって読んだ。アスペクトの話は頭がねじれそうになるな…。
過程、達成、到達といった諸出来事の区別を、粘土と像みたいな素材とものの関係と関連させて分析している。


一応最初にアスペクトの解説。

過程process
例.「歩き回る」。1時間歩き回った時、その部分を取り出してもそれは「歩き回る」という出来事になっている。
達成accomplishment
例. 「家を建てる」。家を建てることの部分を取り出しても、それは「家を建てる」という出来事にはなっていない。終端を本質的に含むタイプの出来事。
到達achievement
例. 「勝つ」。終端しか含まない出来事。


少し用語を導入してみる(以下はCrowtherの記述にヒントをえて、私が勝手に作った用語)。これもっと形式化して書きたいな…。
Fが何らかの出来事タイプに属する出来事であるとしよう(「歩き回る」とか「家を建てる」みたいな)。Fは特定の時空間で起きる。この時、時間上の特定の時点や時間幅上では、以下のいずれかが成り立っていたりする。

Fの進行
F-ing(F-している)。Fが進行中である。
十分な成立
F-ed(F-した)。ある時間幅の中で、Fが成立している。
完全な成立
F-ed。その時間幅はFの開始と終了を含み、Fの全体を含んでいる。

過程の例

過程の例を考えよう。私が13時から14時まで、歩き回ったとしよう。この時、13時から14時までの時間幅の部分となる任意の時間幅や時点に、歩き回ることの進行は存在する。どのポイントをとっても「その時歩き回っていた」と言える。
一方、歩き回ることの完全な成立は、13時から14時までの時間幅だけに存在する。
また、歩き回ることの完全な成立の部分を取り出すと、その内の多くは、歩き回ることの十分な成立になっている。ただしすべての区間ではない。十分な成立は、ある程度の長さを持った区間だけに存在する。なぜならば、あまりに短かい区間だと「歩き回った」とは言えないからだ。一瞬を考えると、そこではまだ右足をあげただけで歩いてはいないかもしれない。
ここは本当にややこしいが、進行は任意の時点/任意の区間に存在するのだが、十分な成立はそうではない。
また過程の場合、進行の存在は完全な成立の存在を含意する。「歩き回っている」のに、「歩き回った」わけではないなどというケースはない。

  • 進行は任意の時点/任意の区間に存在する。
  • 完全な成立は一つだけ存在する。
  • 完全な成立の多くの部分は、十分な成立になっている。
  • 進行の存在が完全な成立の存在を含意する。

達成の例

今度は達成の例を考えよう。私が13時から14時までの間に、家から本屋まで歩いたとしよう。この時、13時から14時までの時間幅の部分となる任意の時間幅や時点に、家から本屋まで歩くことの進行は存在する。どのポイントをとっても「その時家から本屋まで歩いていた」と言える。
一方、家から本屋まで歩くことの完全な成立は、13時から14時までの時間幅だけに存在する。
達成の場合、十分な成立と完全な成立の区別は意味をなさない。家から本屋までの歩行の一部だけを取り出しても、「家から本屋まで歩いた」と言えるような区間は無いからだ。
さらに達成の場合、進行の存在は完全な成立の存在を含意しない。「その時家から本屋まで歩いていたが、結局本屋までは行かなかった」ということがあるからである。

  • 進行は任意の時点/任意の区間に存在する。
  • 完全な成立は一つだけ存在する。
  • 完全な成立の真部分で、十分な成立になっているものはない。
  • 進行の存在が完全な成立の存在を含意しない。

構成関係とのアナロジー

Crowtherは、過程と達成の区別を粘土と像のような、素材とものの構成関係とのアナロジーで理解しようとする。
このアナロジーでは以下のような対応関係がある。

  • 素材(粘土) - 出来事の進行
  • 境界を持った素材(粘土の塊) - 過程
  • もの(像) - 達成

粘土でできた像や、粘土の塊が存在する空間を考えた時、その任意のポイントに粘土があるということはある意味では正しい(進行とのアナロジー)。
また粘土の塊の部分の内の多くは、それも粘土の塊という同種のものである。ただしあまりミクロな部分を取り出してもそれはもはや粘土とは言えないかもしれない(十分な成立とのアナロジー)。
一方、像の部分は像ではない。像や達成は、種によって規定された構造を持っている。しかしこの構造は部分には共有されていないため、部分と全体の種が違っている。反対に、過程とか粘土の塊は、構造が無いベタっとした種なので、その部分の多くはだいたい全体と同じ種に属する。
あと、粘土が存在すれば常に粘土の塊は存在するが、粘土像はそういうものではない(進行と完全な成立の関係とのアナロジー)。