Ira Newman「仮想的な人々: 現実のフレームによるフィクショナルキャラクター」

http://philpapers.org/rec/NEWVPF
Newman, Ira (2009). Virtual People: Fictional Characters through the Frames of Reality. Journal of Aesthetics and Art Criticism 67 (1):73-82.

以下の本に入ってる論文を順番に読んでるのだけど、そろそろ10本目。
The Poetics, Aesthetics, and Philosophy of Narrative (Journal of Aesthetics and Art Criticism)The Poetics, Aesthetics, and Philosophy of Narrative (Journal of Aesthetics and Art Criticism)


グレゴリー・カリーが、「リチャードソンの『パメラ』を現代的な目で読むとパメラはすごく計算高い人間に見える。多分リチャードソンの意図はそうではないのだけれど、そういう読みはありだろう」と書いていたのだけど、これも近い話だ。


私たちはキャラクターの動機や心理について、現実の人間のような解釈をする。例えば「ハムレットはなぜ自殺を試みたのか」を考えることはシェークスピアの意図を推察するというより、ハムレットの心情を考えることである。「シェークスピアは現代の心理学など知らなかったのだから、現代の心理学をハムレットに適用するのは馬鹿げている」という人もいるが(ある程度まではその通りだが)、私たちはかなりの程度キャラクターの心理を現実の人間のように解釈することが許されている。キャラクターについて考えることは、その性格[character]について考えることだ。


キャラクターは作られたものであり、たとえばハムレットをその作品世界から切り離すことはできないという人もいる。これもある程度まではその通りだが、キャラクターを作られたものとして見る外的な視点と、キャラクターを人間のように見る内的な視点を区別すべきだ。内的な視点では私たちは、キャラクターを人間のように考え、その気持ちに立って考える。作者の気持ちを考えることと、キャラクターの気持ちを考えることのどちらも必要である。

作者がキャラクターの心理や動機を完全に決定し、はっきり説明するようなケースも無いわけではない。しかしむしろフィクションの場合、それを説明せず、想像に任されていることが良い点であるとも言える。


一方、現実の文脈でキャラクターを解釈するのと反対に、キャラクター像がある種の典型として、現実の人々を理解するために用いられることもある。イプセンの作品が新しい女性像として受け取られたことなどが例にあがっている。Newmanはトマス・クーンを引いて、これは典型例という意味でのパラダイムであると言う。物語はキャラクターの一部分を印象的に提示するので、それが典型として広まっていくことがある。