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Nathern Salmon「非存在者」

fiction

以下を読み直していた。
http://philpapers.org/rec/SALN
Salmon, Nathan (1998). Nonexistence. Noûs 32 (3):277-319.

サモンは、フィクショナルキャラクターについての創造物説[creationism]の主要な擁護者のひとりである(創造物説は「抽象的人工物説」と同じ。「抽象的人工物」という言い方はよくない気がしてきたので今後創造物説を使う)。


以下を読んでいて、ブラウンのサモン解釈は少しおかしいのではないかと気になって確認していた。

Braun, David (2005). Empty names, fictional names, mythical names. Noûs 39 (4):596-631.
http://philpapers.org/rec/BRAENF


以下は細かい話なのだけど、ちょっとサモンの立場を整理しておきたいのでまとめておく。
創造物説の支持者の中でも、キャラクター名がいつ文化的人工物を指示するかについては対立がある。特にフィクション作品内部での使用など、「ふり」を含む文脈では、キャラクター名は文化的人工物を指示しないとする論者もそこそこいる。なぜかというと、ホームズ作品においてコナン・ドイルは人間の探偵について書いているのであって、人工物について書いているわけではないとするのが自然に思われるからだ。

例えばクリプキは、「ホームズ」という名前には人を指す用法と人工物を指す用法の二種類があると言っているように見える(これもちょっと解釈が難しいが)。ホームズ作品の中では、「ホームズ」という名前は、人を指示する「ふり」をするものとして使用されている。一方、「ホームズは実によくできたキャラクターだ」といった「ふり」を含まない、人工物を指示する用法もある。

サモンはこれを批判していて、どの文脈でもキャラクター名は人工物を指示すると主張している。サモンの批判は、次のようなものだ。確かに、指示する「ふり」はあるかもしれない。実際ホームズ作品において、「ホームズ」という名前がホームズという人を指示することは虚構的真かもしれない。しかしこれが意味するのは架空の探偵を指示する架空の固有名規約があるということにすぎない。架空の探偵が現実の事件を解決できないのと同じように、架空の固有名規約は現実のコナン・ドイルの名前の使用に意味を与えることはできない。架空の固有名規約が、現実の日本語の名前「ホームズ」に人を指示する用法を与えることはないのだから、「ホームズ」の二つの用法は疑わしい。わたしはこれはそれなりにもっともな議論だと思う。
ただ、サモンの立場はややこしい。サモンは作品の中の名前も人工物を指示するとしながら、コナン・ドイルが小説を書いている時点では、まだ人工物としてのホームズは存在しないかもしれないと言っている。

コナン・ドイルはキャラクターが十分に完成するよりも前の期間に名前を使用したかもしれない。
Salmon[1998], p.301

ブラウンは、これを、ふりを含まない発話がなされるまでは、人工物を指示する用法は確立されないと解釈したらしい(Braun[2005], p.625 注23)。本人も誤解かもしれないと言っているが、おそらくこれは誤解だろう。
サモンは上の引用箇所のすぐあとで、未来に生まれる子どもを指示できるという話をしている。多分サモンは、「ホームズについて十分多くのことが書かれるまではホームズというキャラクター(人工物)は存在しないかもしれない。しかしわれわれは未来に存在するようになる対象も指示できるので問題ない」というくらいのことを言っているのだと思われる。

この解釈を取る理由は、サモンはふりを含まない発話には特に触れておらず、単に量を問題にしているように見えるから。なおBraun[2005], p.628の注40には、「この論文を書いたあとサモンに誤解を指摘された」という話が載っている。そこに載っているサモンの説明は、「ホームズ」ではなく「バルカン」についてだが、ルヴェリエのようにバルカンという惑星が存在すると誤って信じていた人でも、多くの発話をしたあとではバルカンという文化的人工物が存在するようになるので、バルカンを指示できるとしている。これは上の解釈を裏付けるものだろう。