http://philpapers.org/rec/FINICA-2
Fine, Kit (forthcoming). Identity criteria and ground. Philosophical Studies:1-19.
criteria of identity and ground | Kit Fine - Academia.edu
なぜかキット・ファインをたくさん読んでいる。
これは、同一性の基準を与えるとは何をすることなのかという問題を扱っている。同一性の基準を与えるというのは何をすることなのかについて迷ったことがあればおもしろいと思う。
ここで同一性の基準とは、その条件を満すことが、対象を同一にするような条件のこと。ファインは「対象を同一にする」という直観的な表現を、同一性に対する基礎付け(グラウンディング)として理解した上で議論している。
同一性の基準の例
※「→」は「ならば」ではなく、「同一にする」「同一性を基礎付ける」と読んでください。
集合xと集合yについて、任意のzについて、(zがxに属する≡zがyに属する) → x=y
時点tと時点uについて、t時点の人Pと、u時点の人Qが心理的に結合している → P=Q
直接的には、以下のような「同一性の基準を与えるということは意味をなさない」という批判に答えることで、同一性の基準を与えるとは何をすることなのかを議論している。
↓以下はデイヴィド・ルイス
同一性は完全に問題のない概念だ。すべてのものはそれ自身と同一である。あるものをそれ自身と同一にするものは何かなどという問題はない。そうでありそこねるようなものは何もないからである。そして二つのものを同一にするものは何かなどという問題もない。二つのものは決して同一ではありえないからである。
Lewis D. K. ,1986, ‘On the Plurality of Worlds’, 192-193
ここでルイスが言っているのは次のようなことだ。
- 1. 個別のx, yについて
- 2. xとyが同一なら、xとyを同一にするものは何もない。(なぜならそれは必然的に真だから)
- 3. xとyが同一でないならば、xとyを同一にするものは何もない。(なぜならそれは必然的に偽だから)
- 4. 従って、xとyを同一にするものは何もない。
ファインの批判は、
- まず、個別例で基礎付けが成り立たないからといって、一般的な同一性言明においてもそれが成り立たないという推論はおかしい。
- さらに2と3もおかしい。集合xについて、xとxが同じ要素を持つことが、xとxを同一にするというのは、少なくとも直観的には偽ではない。xとyが同一でない場合に、xとyが同じ要素を持つことが、x=yを基礎付けるだろうというのも、必ずしもおかしくはない。
ひとつめの批判はちょっと難しいが、ファインは同一性の基準を普通の全称量化として解釈すべきではないと主張している。
自分が提案している任意の対象の理論を使うと、「任意の集合」「任意の人」といった任意の対象[arbitrary object]に関する言明として理解できると。
任意の対象の理論はよくわからないが、同一性の基準は、普通の全称量化ではなく、「任意の集合として捉えられたかぎりでの集合」「任意の人として捉えられたかぎりでの人」についての主張として理解しなければならないと言われると、そういう気もしてくる。
全体としては、以下のような3つの発想に反論している。
- 個別例で同一性の基礎付けが成り立たないから、一般的に同一性の基礎付けが成り立たないとする議論
- 同一性の基準を全称量化として理解すること
- 同一性についての議論を、対象の特定の仕方に関する議論として解釈すること