若手哲学フォーラムで発表するのでその宣伝。
7月17日11時からです。正式なタイトルは「重要であることそれ自体について: 重要さの哲学と重要さの懐疑論」です。
重要であるとはどのようなことであるのかを扱います。これを聞くと、重要であるというのがどういうことなのかわかるのでとても重要な発表です。
重要さに関する私の分析はとてもシンプルです。まず、重要さの担い手は問いです。そして問いは命題の集合です。何らかの問いが重要であるということは、問いを構成する命題が十分に大きな価値のちがいをもたらすということです。
例えば、「パーティに誰が来るのかが重要だ」という言明を考えてみましょう。この言明は、「パーティに誰が来るのか」という問いに重要さを付与しています。「パーティに誰が来るのか」という問いは、この問いの答えを構成するような命題(ないし可能性)の集合、つまり「太郎がくる」「花子がくる」などの答えの集合と見なされます。
以下の状況を考えましょう。パーティに花子が来れば最高だけど、ヒロシがきたら最悪。この場合、パーティに誰が来るのかが重要です。
命題 | 価値 |
---|---|
パーティにタカシが来る | 0 |
パーティにハナコが来る | +10 |
パーティにヒロシが来る | -8 |
以下のように、別に誰がきても変わらんという場合、パーティに誰が来るのかは重要ではありません。
命題 | 価値 |
---|---|
パーティにタロウが来る | +1 |
パーティにヨシオが来る | +1 |
パーティにタカシが来る | +1 |
私の考えでは、物や命題に重要さを帰属する場合も、問いに対する重要さの帰属が基本になります。重要な本というのは、それが出版されるかどうか、あるいは、それを読んだかどうかが重要な本です。重要な人というのは、その人がいるかどうかやその人に会ったかどうかが重要な人です*1。
重要さは、人生の意味と関連して論じられてきました。後半では、人生の意味のニヒリズムとしてしばしば論じられる「何も重要ではない」という見解について、これが何を意味し、これがどのような点で問題であり、どのような議論によって正当化されるのかを見ます。
詳細には踏み込みませんが、重要さは、大きな価値のちがいをもたらすという性質なので、何も重要ではないということは、何も十分な価値のちがいをもたらさないという意味です。従って以下のいずれかが言えれば、何も重要ではないということが言えます。
- 何も良くも、悪くもない。
- 何も十分な価値のちがいをもたらさない。
あと、これが何で問題かというと、人生に対する真剣さを奪います。単に良いものが何もないのであれば不幸なだけですが、何も重要ではないということは、幸福でも不幸でもあまりちがいがない、別にどんな人生でも変わらないということを意味します。なので、何も重要ではないといやだなーということになります。
あとはR.M.ヘアの家に若いスイス人が遊びにきて、家に置いてあったカミュの『異邦人』を読んで、「何も重要ではない」と絶望しはじめたという愉快なエピソードなどについて話します。そんな感じで重要さについて語りあかす発表になる予定です。
*1:命題に対する重要さの帰属はもっと複雑ですが、基本には、「太郎がここにいることが重要だ」は、「太郎がここにいるかどうかが重要だ」にいくつかの意味を付け足したものになるだろうと考えています