Peter Kulger「意味、カテゴリー、問い: ライルとともにドゥルーズを読む」

ドゥルーズとライル(!)

Kügler, Peter (2011). Sense, Category, Questions: Reading Deleuze with Ryle. Deleuze Studies 5 (3):324-339.

philpapers.org

目次

  1. 表示、顕示、意義、意味
  2. カテゴリーと問い
  3. 意義の文脈的生産

著者は、この論文でドゥルーズの「意味(センス)」とライルの「カテゴリー」を比較している。もちろんドゥルーズとライルはお互いを参照しているわけではないが(それどころかライルとドゥルーズというのは、併置されること自体驚くような組み合わせだが)、両者の議論は実はかなりの程度類似している。

ライルのカテゴリー

ライルの「カテゴリー」というのは、「カテゴリーミステイク」で有名なやつだ。概念はカテゴリーに属する。概念のカテゴリーは、それに対して適切になされうる論理的操作の集合を定める。カテゴリーを間違えると、ナンセンスな問いやナンセンスな主張をしてしまう。

例えば、教室や運動場や講堂に行ったあと、「教室の運動場や講堂の場所はわかりました。で、大学というのはどこにあるんです?」と聞くのはナンセンスだ。「大学」というのはそれらすべてを含むもののことだからだ。

ライルのカテゴリーはしばしば「それに対して、どんな問いなら適切に問えるか?」によって特定される。

ドゥルーズの意味

ドゥルーズは意義significanceと意味senseを区別しており、意味の方はかなり特殊な仕方で使われている。意義の方は、推論関係によって決まるもので、命題の意義は、「その命題は、どんな命題から推論されるか」「その命題からどんな命題を推論できるか」の集合によって定められる*1

意味の方はかなりわかりにくいのだが、以下のようなことが言われている。

  • 命題は、問題に対する解決である。
  • 意味は、問題のうちにある。
  • 問題は、複数の問いによって構成される。

命題の使用は、諸々の問いに対する答えである。また、その命題の使用は、さらなる問いを誘発する。命題の意味は、これら諸々の問いによって構成される。

また、ドゥルーズは、ルイス・キャロルの「ナンセンス」に訴えることで、意味(センス)の欠如を説明している。問いに対する不適切な答えや、主張に対する不適切な問いがナンセンスを構成する。

ざっとまとめると、以下のような感じだろうか。

  • 両者とも、推論関係より、もっと目の細かい適切性の水準を捉えるために、カテゴリーや意味(センス)の概念を導入している。
  • この適切性の水準は、問いと答えの関係を範にとって考慮されている。
  • 両者とも、この適切性の水準を外れるもの(ナンセンス)に注目している。

*1:著者によれば、ドゥルーズは推論主義がまだ知られていない時期にそれに近い発想をしていたらしい。これははじめて知った。