ツヴェタン・トドロフ「探偵物語の類型学」

Poetics of Prose: Literary Essays from Lermontov to Calvino (English Edition)

Poetics of Prose: Literary Essays from Lermontov to Calvino (English Edition)

Tzvetan Todorov(1977) The Typology of Detective Fiction. In Tzvetan Todorov, Richard Howard (trans) The poetics of prose. Blackwell.

ツヴェタン・トドロフの有名な探偵小説論。有名な論考のわりに、あまり日本語で紹介を見たことがないと思ったので書いておく。残念ながらこの論文の日本語訳はない(と思う)。

この論考は、題名の通り、探偵物語、探偵小説の分類を論じたものだ。「探偵物語」の原語はDetective Fictionなので、探偵フィクションとでも訳すべきかもしれないが、へんな日本語になってしまうのでとりあえず「探偵物語」「探偵小説」などと訳す。

この論考の中でトドロフは探偵小説を三つの類型にわけている。

  1. フーダニット
  2. スリラー
  3. サスペンスノベル

この三つの中身自体は説明を聞けば「なるほど」という感じだが、「フーダニット」「スリラー」「サスペンス」という名称自体はあまり一般的ではなく、トドロフの独特の用法なので、気にしない方がいいと思う。

フーダニット

トドロフが「フーダニット」と呼ぶのは、黄金期のミステリに見られるような類型だ。「ミステリ」とか「探偵小説」と聞いてまっさきに思い浮かべるようなタイプのものを想定してもらって良い。事件が起き、探偵が謎を解き、犯人を当てる。ちなみに、探偵小説で「黄金期」と言った場合は、一般的に戦間期、つまり第一次大戦と第二次大戦の間の期間を指すことが多いと思う。

フーダニットは、犯罪のストーリーと捜査のストーリーという二つのストーリーから成る。第一のストーリーでは、恐るべき犯罪が実行されるが、その詳細は物語の開始時点では伏せられている。第二のストーリーは、第一のストーリーが終わった後ではじまる。第二のストーリーでは、探偵が事件を捜査する。探偵は行動せず、ただ学び、考え、答えを探す。そのため、第二のストーリーでは大した出来事は生じない。第二のストーリーは、第一のストーリーを復元し終えた段階で終わりを迎える。

表にまとめると、トドロフは第一のストーリーと第二のストーリーをそれぞれ以下のように特徴づけている。

主題による特徴づけ 時間による特徴づけ 対応する問い
犯罪のストーリー 過去の物語 何が起きたのか?
捜査のストーリー 現在の物語 われわれはそれをどうやって知ったのか?

トドロフによれば、第一のストーリーと第二のストーリーはそれぞれ、物語論で言うところの「ストーリー」と「プロット」や、「出来事」と「語り」に対応する。もちろんそのようにまとめてしまえば、探偵小説にかぎらず、あらゆる物語に当てはまる区別になってしまうのだが、フーダニットの特徴は、第一のストーリーと第二のストーリーが時間的に前後してつらなり、第二のストーリーの中で第一のストーリーが発見されるという部分にある。

スリラー

スリラーは、先に述べた第一のストーリーと第二のストーリーのうち、第二のストーリー(捜査のストーリー)だけを独立させたものだ。どういうことかというと、過去の出来事の復元には焦点が当たらず、現在や未来の出来事──「この危機をのりこえられるか?」「これからどうなる?」──に焦点が当てられる。要するに、冒険小説に近い形態の探偵物語ということになる。

おそらく、日本語でこのジャンルを「スリラー」と呼ぶことはほとんどない。「ハードボイルド」や「ノワール」または「サスペンス」といった方が通りがよいだろう*1。実際、トドロフが具体例としてあげるのは、ハメットやチャンドラーといったハードボイルドの作家だ*2トドロフは、スリラーを、好奇心や緊張感のような感情、および暴力、セックス、反モラルといった主題の点からも特徴づけている*3

ちなみにスリラーの隣接ジャンルであるが、「探偵物語」に含まれないジャンルとして、スパイフィクションがある。よく知られているように(というほどよく知られていないが)007の原作者イアン・フレミングは、チャンドラーの友人でもあり、チャンドラーに影響を受けていた。

サスペンス小説

サスペンス小説は、フーダニットとスリラーの中間的な形態の作品を指す。謎解きもありつつ、捜査の物語のサスペンスや好奇心も維持されるという形態のものだ。繰り返しになるが、これはあまり一般的な用語ではなく、「サスペンス小説」という語をこの意味で使うのは私の知るかぎり、トドロフ以外では見たことがないのだが、こういう類型の作品がたくさんあるのはその通りだろう。

トドロフはこの典型のひとつとして「容疑者兼探偵のストーリー」という形態のものをあげている。主人公が突然容疑者になってしまい、捜査の手を逃れると同時に真犯人を探す。私もよく知らないが、ウィリアム・アイリッシュ、パトリック・クエンティン、チャールズ・ウィリアムズがよくこういう小説を書いているらしい。

おまけの宣伝

ユリイカ 2019年3月臨時増刊号 総特集◎魔夜峰央』で、トドロフのこの論考の話をちょっとだけしたので宣伝しておく。

*1:トドロフはスリラーとサスペンスを区別しているが、これはそれほど一般的な用法ではないと思う。

*2:念のために付けくわえておくと、一応ハメットやチャンドラーにも謎ときはあるのだが、それがメインではないと言ってもそれほど問題ないだろう。

*3:ちなみに、ここで「緊張感」と訳した語はsuspenseだ。トドロフはなんと「スリラー」と「サスペンス小説」を別カテゴリとして提示しつつ、スリラーの特徴づけの方にサスペンスを入れている。

Kathleen Stock, Only Imagineを読んだ

Only Imagine - Kathleen Stock - Oxford University Press

Only Imagine: Fiction, Interpretation, and Imagination

Only Imagine: Fiction, Interpretation, and Imagination

第一回はこちら

Kathleen StockのOnly Imagineを最後まで読んだので紹介しよう。前回書いた通り、本書は、美学における二つの領域──(1)フィクションと想像、(2)作品解釈──に関わる著作だ。虚構的真理、フィクション、想像といったフィクションの哲学のトピックを幅広く扱っているし、同時に、作品解釈に関する意図主義と反意図主義の対立を扱っている。

本書の大きな特徴と私が考えるものをあげる。

(1) 虚構的真と解釈の問題の結びつき

本書では、「虚構的真」に関する問題と、解釈における意図の問題を結びつけ、一つの問題として論じた上で一本筋の通った整理をしている。

これはありそうで今まであまりなかったタイプの整理だと思う。既存の文献では、「虚構的真はどのように決まるのか(つまりフィクションの内容はどう決まるのか)」という問題と「作者の意図」の問題はほとんどつなげて論じられてこなかった。しかし、本書では、この両者の問題が一つの構図の中で見事に整理されている。

著者が擁護する「極端な意図主義」をとれば、虚構的真に関する既存の理論の足りない部分もうまく補完されるし、反対に虚構的真に限定さえすれば「極端な意図主義」は魅力的な立場になってくるという。この辺の結論にどこまで賛成するかはともかく、本書は、虚構的真と作者の意図に関しては、詳細なサーベイを提示しつつ、それなりに筋の通った議論を展開しているので、この辺りの問題に関心があれば、読んで損はないと思う。

(2)豊富な事例と「ケースバイケース」主義

著者は本書で、「フィクションに関して架空の例は使わない」という方針を貫いている。分析哲学者としては珍しい心がけだが、これは美徳だと思う。この方針のおかげで、本書は事例集としても価値があるものになっている。例えば、「作者の意図が失敗している事例」というのはよく話題にあがるわりに、実際の事例はかなり多様で難しいのだが、本書ではおもしろい例がいろいろと紹介されている。

また、おそらく本書のもっとも中心的なメッセージのひとつは、フィクションや想像というのは非常に多様なものなので、一般化しようとしてもあまりうまくいかないのだというものだろう。本書では、いたるところで「それはジャンルによる」「作者の目的による」という指摘がなされている──この辺りもあまり哲学者っぽくないと言えば哲学者っぽくない議論の仕方だが、私は大いに共感するところが多かった。

どうやら、著者が「極端な意図主義」を強調するのは、それが「目的によって違う」「ジャンルによって違う」「ケースバイケースだ」ということをもっともうまく扱える立場だと考えているかららしい。

(3)想像とフィクションの結びつき

本書の基本的なフィクション観は、フィクションを、鑑賞者の想像によって規定するタイプのものだ。もちろんこれは著者の独創ではまったくなく、ケンダル・ウォルトンやグレゴリー・カリーといった過去のフィクションの哲学でも、よく見られた(主流と言ってもいいかもしれない)立場だ。しかし、Stockはこの伝統的立場をアップデートし、さまざまな批判に対して答えている点で、「想像概念を使ったフィクションの哲学」の最新版を確立していると言ってもよいだろう。個人的には、フレンドやマトラヴァーズといった論者の近年の批判にかっちり答えてくれた辺りは非常に参考になった。

目次と各章の内容

  1. 極端な意図主義と虚構内容
    • 本書の概略と基本概念の整理
  2. 解釈の意図主義的戦略
    • 虚構的真に関する議論。
    • ルイスやカリー説の批判。
    • フィクションの解釈には、自動的に適用できる方法は存在せず、基本的にジャンルとか作者の目的によって変わるという主張が擁護される。
  3. 極端な意図主義とそのライバルたち
    • 解釈と作者の意図を巡る議論。
    • 穏健な意図主義、仮説意図主義、最善価値説などのライバル説の批判。
  4. フィクション、信念、「想像的抵抗」
    • 前半では、「フィクションを通じて、現実の知識を伝えられるか」という問題が扱われる。
    • 後半では、いわゆる想像的抵抗の問題が論じられる。
  5. フィクションの本性
    • フィクションの定義が議論される。
  6. バック・トゥ・ザ・イマジネーション
    • 想像論を扱った章。
    • 想像の反実仮想の側面だけを強調する立場を批判しつつ、「想像は何でもあり」説も批判される。
    • 想像と仮定の区別なども議論される。

notionで読んだ論文を管理する

いそがしい人のための要約

  • notionで読んだ論文を記録しよう。
  • このURLからnotionに登録しよう。
    • このURLから登録すると私のクレジットが増えます。

まえおき

もしあなたが論文を読むことを仕事の一部にしている人であれば、聞いてみたい質問がある。

「今月何本の論文を読みましたか? 」「あと何本読む予定ですか?」

多くの人は「わからない」と答えるかもしれない。

では、次の質問「論文を読む本数を増やしたいですか?」

おそらく「増やしたい」という人が多いだろう。

しかし、最初の質問に「わからない」と答えた人。あなたは今自分がどれくらい論文を読んでるのかも把握していないし、先月に比べて増えているのか減っているのかも把握していない。それでどうやって読む量を増やすのだろう。

現状を把握していなければ増えたのかへったのかも評価しようがない。このままでは、自分のやったことの結果も知らず、年老い、やがて死ぬことになる。そんな人生はさびしいじゃないか。

ちなみに、私は自分が読んだ量を知っている。今月は現時点で15本でわりといいペースだ。先月は25本だった。

(読んだ本数を自慢したいわけではない。分野が違えば本数の比較は無意味だし、各自いろんな生活があるので。でも自分の中での比較は知っておいた方がいいよ!というのが趣旨)

読んだものを記録する

私がどうやって管理しているのかを紹介しよう。

論文を読んだら、notionにタイトルと日付を記録する。それだけ*1

以前はグーグルスプレッドシートに記録していたが、少し前にnotionに移行した。以下のような感じ。一応タグとかつけてるが、日付とタイトルとURLくらいでいいんじゃないかと思う。

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notion

notionをおすすめする理由

論文既読記録をnotionに残すのは、ぜひおすすめしたい。

おすすめの理由

  • 記録はつけた方がいい。
    • まず現状を知らないと、改善しようがない。
    • 記録をつけて把握するだけでも、読む本数は増える傾向にある。
  • notionだと、記録から「内容メモ」に発展しやすい。
    • タイトルをクリックするとメモが開くので、「じゃあついでに内容もメモしておくか」とアフォードされる。スプレッドシート時代は本数を記録するだけだったのに、notionに移行してからは、内容のメモも残すようになった。
    • でも、内容のメモを残すのはハードルが高いので、最初は日付とタイトルだけ記録するつもりでいた方がいいと思う。100文字そこらのタイトルも記録できない人には、内容のメモは無理。

内容メモは以下のような感じ。

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内容メモ

notionの使い方のコツ

(1) 登録したら、まず、初期設定されているページとテンプレートをすべて削除する。

notionの問題点は、多機能すぎることだ。多機能すぎて混乱するので、最初のページはすべて削除した方がいい。まず一つの機能で慣れてから他の機能を使うようにした方がいいよ。

(2) 「New Page」をクリックし、ページタイトルを「読んだ論文」に設定し、Tableを選ぶ。

「Properties」をクリックして、表を「タイトル」「日付」「URL」の3項目にする。

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(3) 論文を読んだら記録する

貯めるとやらなくなるので、その日のうちに記録しよう。あとは、たまにながめて悦に入ればいいし、気がむけば内容や感想のメモとか残しておこう。「論文」の定義はむずかしいが、私は学術書であれば本の章でもいいことにしている。その辺は自分なりにルールを設定すればいいかと。

(4) デコる

慣れてきて、気が向いたらデコってみるといい。絵とか名言とか入れるといいですね。

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意味があるのかはわからないが、カレンダー表示もできる。

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今すぐ登録しよう

  • このURLからnotionに登録しよう。
    • このURLから登録すると私のクレジットが増えます。

*1:細かく言うと、本当はhabiticaで「論文を読んだ」という習慣をクリックすることもしているのだが、それは本題ではないので置いておく。

Kathleen Stock, Only Imagineを読みはじめた

Only Imagine - Kathleen Stock - Oxford University Press

Only Imagine: Fiction, Interpretation, and Imagination

Only Imagine: Fiction, Interpretation, and Imagination

Kathleen StockのOnly Imagineを読みはじめた。と言ってもまだ序章と1章を読んだだけなのだが、これからまじめに読んでいこうと思っているので、紹介記事を書くことにした(余裕があれば後続記事も書きたいと思っている)。

本書は、美学における二つの領域──(1)フィクションと想像、(2)作品解釈──に関わる著作だ。虚構的真理、フィクション、想像といったフィクションの哲学のトピックを幅広く扱っているし、同時に、作品解釈に関する意図主義と反意図主義の対立を扱っている。2017年に出た比較的新しい本なので(といってももう2年前だが)、これらのトピックに関する最新の議論を扱っていると言っても良いだろう。

出版社の紹介を読めばわかるように、本書は、フィクションの内容に関する「極端な意図主義」を擁護する著作だ。この紹介だけを見ると「すごく極端な立場をがんばって擁護する本」という内容を予想する人もいるだろう。私も手にとる前はそういう内容を予想していたし、「めんどくさそうな本なのかな」とちょっと敬遠もしていたのだが、実際に読むと、この期待は肩すかしに合うことになった。むしろ、羊頭狗肉感があるというか、比較的穏当な立場を「極端な意図主義」と称しているのではないか?という疑念を覚えた。もちろん、それなりに議論の余地のある主張もしているのだが、「極端っていうほど極端か?」という印象はある。

むしろ多くの面で比較的穏当な立場を擁護しているように見えるし、細かい概念のさばき方は非常に参考になった。私自身は、意図主義対反意図主義の論争にはそれほど関心はなく、関心はむしろフィクションの理論の方にあるのだが、少なくともそちらに関しては、著者の主張はそれほど極端なものには見えなかった。

極端な意図主義

著者のいう「極端な意図主義」は、単純に言えば、以下のような主張だ。

  1. フィクション作品の虚構的な内容は、著者の意図によって決まる。
  2. フィクション作品の虚構的な内容は、普通の会話と同様に、グライス的な意図の理論によって説明できる。

序章で明示されるように、これはあくまでも作品の虚構的内容、つまり作品のシナリオにおける基本的事実(虚構的真)に限定される主張だ。著者の意図主義が適用される範囲は、作品内のベーシックな事実の規定のみに限定されており、それ以上のより高度な解釈(作品のテーマや文学的効果や美的価値)には適用されない(この時点ですでに、あまり極端ではない)。

さらに一章では、基礎概念を整理するとともに、「極端な意図主義」に関するよくある反論に答えている。以下、ここでの議論をダイジェスト的に紹介する。反論は赤字、著者の再反論は青字で書く。

反論: 極端な意図主義をとると、いわゆるハンプティ・ダンプティ効果、つまり話し手が意図さえすれば、任意の文によって任意の内容を意味することができるという帰結を認めることになる。例えば、「1+1=2」と言って、「芝生は緑色だ」を意味するような、まったく滅茶苦茶な意味を認めることになってしまう。だが、これはおかしいだろう。

再反論: 極端な意図主義をとってもハンプティ・ダンプティ効果を認める必要はない。なぜなら、そんなに変なことを意図することは人間にはできないからだ。一般に、相手がPすることを意図してQする場合、行為者はQがPの効果的な手段であることを信じていなければならない。「1+1=2」と言って「芝生は緑である」と伝えることを意図するためには、話し手は、「1+1=2」と言うことが「芝生は緑である」と伝えるための良い手段であると信じていなければならない。しかしそんなことはありそうにない。

著者によれば、話し手は基本的に慣習的に定められた文の言語的意味を利用する。「芝生は緑である」という内容を伝えるために、「芝生は緑である」という文を利用することが一般的なのは、多くの場合にそれがもっとも倹約的な手段だからだ。だが、話し手は時に会話の含みを利用して、非慣習的な意味を伝えることもある。しかし、いずれの場合も、基本的に話し手が意味する内容は、話し手の意図にそっている。

そして、著者によれば、これはフィクション作品の場合も基本的に変わらない。フィクション作品は、日常会話とは目的が異なっており、読者に特定の内容を想像してもらうことを目的にしているが、その点以外は日常会話とあまり変わりがないのだ。

反論: 仮にものすごく非合理的な信念をもった人がいて、「1+1=2」と言うことが「芝生は緑である」と伝えるための良い手段であると信じていたらどうするのか。

再反論: その場合は譲歩して、「私の理論は、ものすごく非合理的な信念をもった人には当てはまらない」と認めてもいい。

この最後の再反論でずっこけた。

John MacFarlane「プラグマティズムと推論主義」

MacFarlane, John (2010). Pragmatism and inferentialism. In Bernhard Weiss & Jeremy Wanderer (eds.), Reading Brandom: On Making It Explici. Routledge. pp. 81--95. https://philpapers.org/rec/MACPAI

Twitterで松井隆明(@takaaki_matsui)さんが紹介しており、おもしろそうだったので読んだ。

ブランダムは「意味のプラグマティズム」という哲学的立場を主張し、それによって自分の「推論主義的意味論」が正当化されるとしているが、前者から後者の正当化は出てこないという批判をしている。要するに、意味のプラグマティズムが正しいとしても、別に真理条件意味論でいいじゃんと言っている。

意味のプラグマティズム

意味のプラグマティズムとは何か?──意味の使用説と言ってもいいと思うが、指示とか真理といった意味論的概念は、言語の使用に即して説明されねばならんという立場のこと。この立場に基づけば、言語の意味に関する事実は、話し手にとって公的に観察可能な言語使用の規範にのっとって説明されなければならない。

これだけだとなんでこんな立場をとるのかわかりにくいが、マクファーレンは背景のモチベーションを次のように説明している。「意味のプラグマティスト」の前提は、「そもそも意味論的概念は、適切な言語使用のルールを説明するためのものなんだから、言語使用のルールに還元できない意味論的概念はおかしい」というものだ。つまり「意味のプラグマティスト」からすれば、言語の意味を明らかにすることは、公共的なゲームのルールを記述するような試みなので、公共的じゃないものに訴えるのはポイントを外しているということになる。もちろん当然ながら、それにも反対する論者はいるわけだが、意味のプラグマティズムが正しいかどうかはこの論文のテーマではない*1

マクファーレンの批判は、「仮に意味のプラグマティズムが正しくても、推論主義だけが意味のプラグマティズムにかなった意味研究のプログラムだとは言えない」というものだ。

マクファーレンの批判

批判は以下のような二段構えで進む。以下、マクファーレンの主張を「マク」、ブランダム側の仮想反論を「ブラ」と記述する。

  • マク「代表的な真理条件意味論の支持者であるデイヴィドソンを考えてみよう。デイヴィドソンも意味のプラグマティズムをとってるし、意味論的概念を言語使用にもとづいて説明しているぞ」
  • ブラ「いや、確かにデイヴィドソンは意味論的概念を言語使用にもとづいて説明しようとしているが、推論主義の方がもっと使用説的なのだ。なぜなら推論主義をとると意味論的概念を言語使用に還元できるからだ」
  • マク「ブランダムも還元できてないじゃん。ブランダムの言ってるコミットメントとかって、妥当な推論の構造のことであって、行為の規範じゃないじゃん」

(批判の中身をちゃんと解説すると大変そうだったのでダイジェスト版のみ)

感想

この論文を読んでも書いてないが、おそらくマクファーレンの基本姿勢は、「意味のプラグマティスト」かつ真理条件意味論なのだと思う。しかし、反対にそのせいでわかりにくいという意見も聞くような気もする。例えば、マクファーレンは真理の概念などをめちゃくちゃ融通無碍に使うのだが、それは基本的に、真理の概念は、言語使用の規範を説明するための道具だと割り切っているからだろう。

あと当然ながらこの論文の批判だと、「推論主義が絶対!」という立場は否定されるが、「目的によっては、推論主義がフィットするよ」という弱い立場はもちろんまったく否定されない。私自身は、道具は目的に応じていろいろ使ったらいいという立場がよいと思う。

むしろマクファーレンの相対主義意味論を推論主義(証明論的意味論)で書いたらわかりやすくなるのではないかと前から思っている。そういう意味では、この論文は、マクファーレンの基本姿勢がよくわかってよかった。

*1:マクファーレンもちょっと触れているが、これはどっちかというと意味に関する哲学的な立場の対立であって、形式意味論は別にどっちの立場でも使える。

Jerrold Levinson「映画音楽と物語的行為者性」

https://philpapers.org/rec/LEVFMA-2

Levinson, Jerrold (1996). Film Music and Narrative Agency. In David Bordwell Noel Carroll (ed.), Post-Theory: Reconstructing Film Studies. U Wisconsin Press.

上の文献表は映画についての論文集だが、下記の論文集にも収録されている。

Contemplating Art: Essays in Aesthetics

Contemplating Art: Essays in Aesthetics

Jerrold LevinsonのFilm Music and Narrative Agencyは、映画音楽をとりあげた珍しい美学の論文。フィクションにおける映画音楽の役割をさまざまに分類している。

レヴィンソンによれば、物語外的nondiegeticな音楽であっても*1、フィクション内的なコメンタリーをする音楽と、フィクション外的なコメンタリーをする音楽にわけられる。

これはかなり微妙な区別であり、しかも非常に多様な事例があがっているのだが、前者の例としては、例えば、悲しい場面で悲しげな音楽が鳴るといった事例を考えてもらえればいい。この種の音楽は、登場人物と同じ目線に立って、物語内の出来事に対する評価的態度や情動を表現している。「音楽が物語内的な語りの一部になっている」と言ってもよいかもしれない。またムードや情動の表現だけではなく、『ジョーズ』で、音楽がサメの存在を示唆するといった事例も、「フィクション内的」な映画音楽に含まれるものとされる。

また、レヴィンソンは、フィクション内的な映画音楽を、映画の虚構の語り手に帰属している。つまり、ムードや情動を表現する音楽は、登場人物と同じレベルに位置する「虚構の語り手」のムードや情動を表現したものだと捉えているのだ*2

一方、登場人物と同じレベルではなく、制作者や観賞者と同じレベルにたった映画音楽というのもある。例えば、カメラと音楽が同期するといった例は、主として音楽の効果が映画の美的側面にかかわっており、映画を見る観賞者や制作者のレベルに位置している(画面はフィクション外のものなので)。また、レヴィンソンは音楽のアイロニー的な使用も、このレベルに位置づけている。

大量の事例を検討している上に、大半の事例は、元の映画を観ないとわからないようなものだったので、まだ未消化だが、豊富な事例の検討はおもしろかった。また、映画だけではなく、同様の検討をビデオゲームに拡張するとどうなるかといった応用も考えられる研究だと思う。

*1:物語外的nondiegeticな音楽とは、映画研究でよく使われる用語で、映画に付随しているが、作中で鳴っているわけではなく、登場人物には聞こえないタイプの音楽のこと。反対に、作中で鳴っている音楽は「物語内的」と呼ばれる。

*2:ちなみに、レヴィンソンは映画音楽にかぎらず、音楽の情動一般を虚構のペルソナに帰属されるようなものだと捉えている。

分析哲学の黒歴史: George A. Reisch『冷戦は科学哲学をどう変えたか』

George A. Reisch, How the Cold War Transformed Philosophy of Science: To the Icy Slopes of Logic

本書は「分析哲学黒歴史」と呼ぶのにふさわしい内容を扱っている。黒歴史という語はネットスラングだが、ここでは、〈多くの人が忘れたがっており、実際に半ば忘れられてしまった過去〉という程度の意味で使っている。

本書によれば、論理実証主義*1という潮流を殺したのは、クワインやトマス・クーンといった批判者達ではない。30年代までは、左翼的な政治運動・文化運動の側面をもっていた論理実証主義の運動(統一科学運動)は、その政治性ゆえに、「共産主義的」と見なされ、冷戦とマッカーシズムの時代にアカデミズムからパージされたというのだ。

もちろん、ある意味では、論理実証主義は排除されてなどいない。現代の分析哲学は、テクニカルで専門的な哲学としての論理実証主義から多くのものを受けついだし、その意味では、現在でも論理実証主義の方法論や発想は生き延びている。だが、論理実証主義ははじめからテクニカルで形式的な哲学という側面しかもっていなかったわけではない。50年代の厳しい政治的な状況の中で、「それしかできなくなってしまった」という方が実態に近いのだ。

本書では、ウィーン左派と呼ばれる哲学者たち、すなわちオットー・ノイラート、フィリップ・フランク、チャールズ・モリス、ルドルフ・カルナップを中心に、冷戦と論理実証主義の関係を追っていく。

正直に言うと、私にはこの本の書評を書くのは能力的に難しいので、以下ラフに書こう。

本書を読んで非常におもしろかったのは、論理実証主義マルクス主義の微妙な関係だ。現在において両者の関係が注目されることは少ないが、実際には両者は、批判もするが時には協力するような関係にあったことがわかる。

特に30年代においては、論理実証主義は、ガチのマルクス主義者からは批判されるが、リベラルよりの知識人からは好意的に受けとめられた。両者にとって共通の敵は、宗教権力やファシストであり、こうした勢力に対して、科学主義の立場から批判するという点でも両者は共通していた。個人主義よりも、集団主義を重視するといった点も、相性の良かった点のひとつだろう。

例えば、論理実証主義者のフィリップ・フランクはマルクス主義論理実証主義の哲学の親近性を強調した論文を書いている*2。一方、マルクス主義から論理実証主義者への批判がどういうものだったかというと、〈論理実証主義者は形而上学は無意味だと言っているが、それだと唯物論弁証法も否定されてしまう〉といった現代から見るとよくわからない議論があったりしたようだ。

だが、冷戦期のアメリカでは、もちろんマルクス主義との親近性はスキャンダル以外の何ものにもならなかった。また、冷戦時代のアメリカでは、集団主義collectivismが全体主義と同一視され、悪者になってしまった。

50年代には、フィリップ・フランクもカルナップもFBIの捜査対象になっていた。本書の後半は、ノイラートやモリスやフランクがだんだん科学哲学・分析哲学のメインストリームから排除されていく過程が描かれているが、この辺りは、読んでいてつらい。フランクらは、科学哲学が、科学の実践と切り離されたテクニカルな専門領域になることに反対し、科学者との協働作業を訴えたが、論理実証主義の受容史は、(1)まずフィリップ・フランクたちが、科学哲学のメインストリームから排除され、(2)つぎに、論理実証主義が、科学の実践を無視した形式的な哲学として批判されるという過程を踏む。この辺りの記述は読んでいてくらーい気持ちになる。

*1:近年の哲学史研究者は「論理実証主義logical positivism」という用語をほとんど使わなくなっており、「論理経験主義logical empiricism」の方が好まれるのだが、わかりにくいと思うので論理実証主義で通す。ただし、実際には本人たちの自称としても「論理経験主義」の方が一般的だったので、やはり「論理経験主義」という名称の方がよいだろうと思う。

*2:Modern Science And Its Philosophy, 11章。