John MacFarlane「プラグマティズムと推論主義」

MacFarlane, John (2010). Pragmatism and inferentialism. In Bernhard Weiss & Jeremy Wanderer (eds.), Reading Brandom: On Making It Explici. Routledge. pp. 81--95. https://philpapers.org/rec/MACPAI

Twitterで松井隆明(@takaaki_matsui)さんが紹介しており、おもしろそうだったので読んだ。

ブランダムは「意味のプラグマティズム」という哲学的立場を主張し、それによって自分の「推論主義的意味論」が正当化されるとしているが、前者から後者の正当化は出てこないという批判をしている。要するに、意味のプラグマティズムが正しいとしても、別に真理条件意味論でいいじゃんと言っている。

意味のプラグマティズム

意味のプラグマティズムとは何か?──意味の使用説と言ってもいいと思うが、指示とか真理といった意味論的概念は、言語の使用に即して説明されねばならんという立場のこと。この立場に基づけば、言語の意味に関する事実は、話し手にとって公的に観察可能な言語使用の規範にのっとって説明されなければならない。

これだけだとなんでこんな立場をとるのかわかりにくいが、マクファーレンは背景のモチベーションを次のように説明している。「意味のプラグマティスト」の前提は、「そもそも意味論的概念は、適切な言語使用のルールを説明するためのものなんだから、言語使用のルールに還元できない意味論的概念はおかしい」というものだ。つまり「意味のプラグマティスト」からすれば、言語の意味を明らかにすることは、公共的なゲームのルールを記述するような試みなので、公共的じゃないものに訴えるのはポイントを外しているということになる。もちろん当然ながら、それにも反対する論者はいるわけだが、意味のプラグマティズムが正しいかどうかはこの論文のテーマではない*1

マクファーレンの批判は、「仮に意味のプラグマティズムが正しくても、推論主義だけが意味のプラグマティズムにかなった意味研究のプログラムだとは言えない」というものだ。

マクファーレンの批判

批判は以下のような二段構えで進む。以下、マクファーレンの主張を「マク」、ブランダム側の仮想反論を「ブラ」と記述する。

  • マク「代表的な真理条件意味論の支持者であるデイヴィドソンを考えてみよう。デイヴィドソンも意味のプラグマティズムをとってるし、意味論的概念を言語使用にもとづいて説明しているぞ」
  • ブラ「いや、確かにデイヴィドソンは意味論的概念を言語使用にもとづいて説明しようとしているが、推論主義の方がもっと使用説的なのだ。なぜなら推論主義をとると意味論的概念を言語使用に還元できるからだ」
  • マク「ブランダムも還元できてないじゃん。ブランダムの言ってるコミットメントとかって、妥当な推論の構造のことであって、行為の規範じゃないじゃん」

(批判の中身をちゃんと解説すると大変そうだったのでダイジェスト版のみ)

感想

この論文を読んでも書いてないが、おそらくマクファーレンの基本姿勢は、「意味のプラグマティスト」かつ真理条件意味論なのだと思う。しかし、反対にそのせいでわかりにくいという意見も聞くような気もする。例えば、マクファーレンは真理の概念などをめちゃくちゃ融通無碍に使うのだが、それは基本的に、真理の概念は、言語使用の規範を説明するための道具だと割り切っているからだろう。

あと当然ながらこの論文の批判だと、「推論主義が絶対!」という立場は否定されるが、「目的によっては、推論主義がフィットするよ」という弱い立場はもちろんまったく否定されない。私自身は、道具は目的に応じていろいろ使ったらいいという立場がよいと思う。

むしろマクファーレンの相対主義意味論を推論主義(証明論的意味論)で書いたらわかりやすくなるのではないかと前から思っている。そういう意味では、この論文は、マクファーレンの基本姿勢がよくわかってよかった。

*1:マクファーレンもちょっと触れているが、これはどっちかというと意味に関する哲学的な立場の対立であって、形式意味論は別にどっちの立場でも使える。

Jerrold Levinson「映画音楽と物語的行為者性」

https://philpapers.org/rec/LEVFMA-2

Levinson, Jerrold (1996). Film Music and Narrative Agency. In David Bordwell Noel Carroll (ed.), Post-Theory: Reconstructing Film Studies. U Wisconsin Press.

上の文献表は映画についての論文集だが、下記の論文集にも収録されている。

Contemplating Art: Essays in Aesthetics

Contemplating Art: Essays in Aesthetics

Jerrold LevinsonのFilm Music and Narrative Agencyは、映画音楽をとりあげた珍しい美学の論文。フィクションにおける映画音楽の役割をさまざまに分類している。

レヴィンソンによれば、物語外的nondiegeticな音楽であっても*1、フィクション内的なコメンタリーをする音楽と、フィクション外的なコメンタリーをする音楽にわけられる。

これはかなり微妙な区別であり、しかも非常に多様な事例があがっているのだが、前者の例としては、例えば、悲しい場面で悲しげな音楽が鳴るといった事例を考えてもらえればいい。この種の音楽は、登場人物と同じ目線に立って、物語内の出来事に対する評価的態度や情動を表現している。「音楽が物語内的な語りの一部になっている」と言ってもよいかもしれない。またムードや情動の表現だけではなく、『ジョーズ』で、音楽がサメの存在を示唆するといった事例も、「フィクション内的」な映画音楽に含まれるものとされる。

また、レヴィンソンは、フィクション内的な映画音楽を、映画の虚構の語り手に帰属している。つまり、ムードや情動を表現する音楽は、登場人物と同じレベルに位置する「虚構の語り手」のムードや情動を表現したものだと捉えているのだ*2

一方、登場人物と同じレベルではなく、制作者や観賞者と同じレベルにたった映画音楽というのもある。例えば、カメラと音楽が同期するといった例は、主として音楽の効果が映画の美的側面にかかわっており、映画を見る観賞者や制作者のレベルに位置している(画面はフィクション外のものなので)。また、レヴィンソンは音楽のアイロニー的な使用も、このレベルに位置づけている。

大量の事例を検討している上に、大半の事例は、元の映画を観ないとわからないようなものだったので、まだ未消化だが、豊富な事例の検討はおもしろかった。また、映画だけではなく、同様の検討をビデオゲームに拡張するとどうなるかといった応用も考えられる研究だと思う。

*1:物語外的nondiegeticな音楽とは、映画研究でよく使われる用語で、映画に付随しているが、作中で鳴っているわけではなく、登場人物には聞こえないタイプの音楽のこと。反対に、作中で鳴っている音楽は「物語内的」と呼ばれる。

*2:ちなみに、レヴィンソンは映画音楽にかぎらず、音楽の情動一般を虚構のペルソナに帰属されるようなものだと捉えている。

分析哲学の黒歴史: George A. Reisch『冷戦は科学哲学をどう変えたか』

George A. Reisch, How the Cold War Transformed Philosophy of Science: To the Icy Slopes of Logic

本書は「分析哲学黒歴史」と呼ぶのにふさわしい内容を扱っている。黒歴史という語はネットスラングだが、ここでは、〈多くの人が忘れたがっており、実際に半ば忘れられてしまった過去〉という程度の意味で使っている。

本書によれば、論理実証主義*1という潮流を殺したのは、クワインやトマス・クーンといった批判者達ではない。30年代までは、左翼的な政治運動・文化運動の側面をもっていた論理実証主義の運動(統一科学運動)は、その政治性ゆえに、「共産主義的」と見なされ、冷戦とマッカーシズムの時代にアカデミズムからパージされたというのだ。

もちろん、ある意味では、論理実証主義は排除されてなどいない。現代の分析哲学は、テクニカルで専門的な哲学としての論理実証主義から多くのものを受けついだし、その意味では、現在でも論理実証主義の方法論や発想は生き延びている。だが、論理実証主義ははじめからテクニカルで形式的な哲学という側面しかもっていなかったわけではない。50年代の厳しい政治的な状況の中で、「それしかできなくなってしまった」という方が実態に近いのだ。

本書では、ウィーン左派と呼ばれる哲学者たち、すなわちオットー・ノイラート、フィリップ・フランク、チャールズ・モリス、ルドルフ・カルナップを中心に、冷戦と論理実証主義の関係を追っていく。

正直に言うと、私にはこの本の書評を書くのは能力的に難しいので、以下ラフに書こう。

本書を読んで非常におもしろかったのは、論理実証主義マルクス主義の微妙な関係だ。現在において両者の関係が注目されることは少ないが、実際には両者は、批判もするが時には協力するような関係にあったことがわかる。

特に30年代においては、論理実証主義は、ガチのマルクス主義者からは批判されるが、リベラルよりの知識人からは好意的に受けとめられた。両者にとって共通の敵は、宗教権力やファシストであり、こうした勢力に対して、科学主義の立場から批判するという点でも両者は共通していた。個人主義よりも、集団主義を重視するといった点も、相性の良かった点のひとつだろう。

例えば、論理実証主義者のフィリップ・フランクはマルクス主義論理実証主義の哲学の親近性を強調した論文を書いている*2。一方、マルクス主義から論理実証主義者への批判がどういうものだったかというと、〈論理実証主義者は形而上学は無意味だと言っているが、それだと唯物論弁証法も否定されてしまう〉といった現代から見るとよくわからない議論があったりしたようだ。

だが、冷戦期のアメリカでは、もちろんマルクス主義との親近性はスキャンダル以外の何ものにもならなかった。また、冷戦時代のアメリカでは、集団主義collectivismが全体主義と同一視され、悪者になってしまった。

50年代には、フィリップ・フランクもカルナップもFBIの捜査対象になっていた。本書の後半は、ノイラートやモリスやフランクがだんだん科学哲学・分析哲学のメインストリームから排除されていく過程が描かれているが、この辺りは、読んでいてつらい。フランクらは、科学哲学が、科学の実践と切り離されたテクニカルな専門領域になることに反対し、科学者との協働作業を訴えたが、論理実証主義の受容史は、(1)まずフィリップ・フランクたちが、科学哲学のメインストリームから排除され、(2)つぎに、論理実証主義が、科学の実践を無視した形式的な哲学として批判されるという過程を踏む。この辺りの記述は読んでいてくらーい気持ちになる。

*1:近年の哲学史研究者は「論理実証主義logical positivism」という用語をほとんど使わなくなっており、「論理経験主義logical empiricism」の方が好まれるのだが、わかりにくいと思うので論理実証主義で通す。ただし、実際には本人たちの自称としても「論理経験主義」の方が一般的だったので、やはり「論理経験主義」という名称の方がよいだろうと思う。

*2:Modern Science And Its Philosophy, 11章。

Noël Carroll「サスペンスのパラドックス」

ノエル・キャロルのサスペンスに関する代表的な論文を読んだ。

Carroll, Noël, 2001, “The Paradox of Suspense”, in Beyond Aesthetics Cambridge: Cambridge University Press.

この論文は、Suspenseというタイトルの論文集が初出で、その後キャロルの著作Beyond Aestheticsに再録された。

サスペンスとは何か

サスペンスとは何か。いわゆるハラハラドキドキという情動のことだ。ヒッチコックはサスペンスの名手と言われるが、映画、特にアクション映画やスパイ映画といったジャンルでは、サスペンスは重要な構成要素となる。

サスペンスをかきたてる状況として、キャロルがあげる典型例は、以下のようなものだ。

人質が縛られた部屋で、時限爆弾の時計がカチコチと鳴っている。ヒーローが救出に向っているが、妨害に合う。残された時間は少ない。果して救出は成功するのか…?

典型的なサスペンスの演出では、「さあ今にも悪いことが起こりそうですよ!」という可能性が執拗に提示される。映画であれば、救出に向うヒーローの映像とともに、時限爆弾がカチコチ鳴っている映像が何度も映されるだろう。

この例でもわかるように、サスペンスは、現実化していない可能性に向けられる。観賞者の期待に基づいた情動だ。

キャロルはサスペンス的状況の構成要素を、以下のように分析している。

  1. 二つの排他的な可能性がある。
  2. 二つの可能性の対立が目立ったものになっている(観賞者の注意がそこに向くようになっている)。
  3. 二つの可能性のうちの一つは、悪い出来事であり、そちらが起きる見込みが高い。
  4. 二つの可能性のうちのもう一方は、より良い出来事だが、そちらが起きる見込みが低い。

表で書くと以下のようになる。いわば潜在的な危険が目の前にある状態だ。

可能性 価値 見込み
A 爆弾が爆発し、人質が死ぬ 悪い 高い
B ヒーローが人質を助ける 良い 低い

ちなみに、サスペンス的状況の後にはその「解決」が来るというのが定番なのだが、サスペンスの解決とは、可能性のうちの一方が現実化すること(上の場面で言えば、ヒーローの救出が成功するか、または爆弾が爆発すること)と見なすことができる。

ただし、生活でのサスペンス的状況と、フィクションの中のサスペンス的状況には重要な違いもある。「悪い」出来事と言っても、フィクション鑑賞者に直接危害がふりかかるわけではないからだ。

このため、フィクションにおけるサスペンス的状況は、登場人物に対する心配を経由する必要がある。観賞者が登場人物を心配し、ふりかかる危険を恐れてくれないとサスペンスは盛り上がらない。これを媒介する重要なファクターが道徳だ。サスペンスは道徳的評価によって媒介される。上記の例でも「悪役」と「ヒーロー」が登場しているが、登場人物に対する道徳的評価は、サスペンスを強化すると言われる。

サスペンスのパラドックス

サスペンスのパラドックスは、「再読の問題」などとも呼ばれる問題だ。

上記の分析でも、サスペンスの対象は潜在的な可能性であるとされているが、サスペンスの成立要件には不確定性が含まれているとされる。しかし、多くの観賞者は、サスペンスを求めて、繰り返し作品を摂取する(この論文によると、キャロルは『キングコング』を50回以上観ているらしい)。ところが、再読(再視聴)する観賞者は、結末をすでに知っているのだから、サスペンスを感じることはないはずだ。

パラドックスの形で書くと、

  1. サスペンスは、結末が観賞者にとって不確定であることを必要としている。
  2. 再読(再視聴)する観賞者もサスペンスを感じる。
  3. しかし、再読(再視聴)する観賞者にとって、結末は不確定ではない。

ちなみに、サスペンスに関しては心理学の研究も多少あるのだが、実験すると、実際は再読(再視聴)によってサスペンスは低下するが、にもかかわらず0にはならないらしい。サスペンスのパラドックスで問題になっているのは、この「なんで0にならないのか」という部分だと理解していいだろう。

解決

キャロルの解決は、キャロル自身も認めるように、ケンダル・ウォルトンの解決とほとんど同じものだ。これは、フィクション鑑賞における観賞者の想像は、フィクション外的な事実を選択的に無視するという現象に訴えるものだ*1

説明のために少し脱線しよう。先ほどあげた時限爆弾の例を思い出してほしい。繰り返し視聴を考えなくても、実際には、この場面の結末は、ほとんどの視聴者にとって簡単に予想できるのではないだろうか。もちろん例外もないわけではないが、こうした紋切り型の場面では、ほぼ確実にヒーローが人質を助けて終わるだろう。

つまり、作品外の知識を動員すれば、実際には、この場面で爆弾が爆発するリスクはきわめて低いと考えられる。しかし、こうした事実は、実際には観賞者のサスペンスを邪魔しないことが多いだろう。「だいたい主人公が勝つよね」などといった作品外の知識に訴えることは野暮であるし、フィクションを楽しむ際に、多くの人は、そういう余計なことを考えずに済ますことができる。

だが、そもそもそういう選択的無視が可能ならば、結末を知っているとしても、それを無視することもできるのではないだろうか。フィクション外的な知識を無視するのと同じように、結末に関する知識を、単に一時的に無視してやれば良い。

この立場は、忘却説(観賞者は結末を忘れている)という別の立場にも似ているのだが、ちょっと異なっている。キャロル=ウォルトン説では、観賞者は別に結末を忘れているわけではなく、いつでも思い出すことができるが、単に関係ないので無視しているだけだからだ。

これは、フィクション外の知識とフィクション内の知識を自在に使いわけるというフィクション鑑賞の特徴に訴えた説明と見なすことができるだろう。

*1:想像の哲学では、この現象は、想像の隔離性などと呼ばれる。

Michael Friedman「現代哲学のカント的テーマ」

Michael Friedman, Kantian Themes in Contemporary Philosophy: Michael Friedman - PhilPapers

Friedman, Michael (1998). Kantian Themes in Contemporary Philosophy: Michael Friedman. Supplement to the Proceedings of the Aristotelian Society 72 (1):111-130.

この論文で、マイケル・フリードマンは、ストローソンとマクダウェルという現代の「カント主義的」哲学者二人のカント解釈を取り上げ、批判している。この二人は哲学の方法論という側面に関しては、ほとんどカント的ではない。

これに対してもちろん「カント的じゃなくてもええやんけ」という反論は可能だろう。フリードマンもさすがにそれが批判になるとは思っていない。むしろフリードマンが強調するポイントは、「じゃあ現代においてカント的な哲学って、ストローソン、マクダウェル路線以外だとどういうものになるの?」というオルタナティブの探求にある。

カントが本来超越論的哲学でやりたかったことは、「メタ科学としての哲学」だ。カントは、ユークリッド幾何学ニュートン物理学という分野が、(1)アプリオリな知識(総合的アプリオリ)の例であると捉えた上で、(2)それが厳密科学としてうまくいっていることを前提にしていた。幾何学と物理学という一階のアプリオリな科学があることを前提にした上で、なぜそんな学問が可能なのかを考えようとしたのだ。

一方、ストローソンやマクダウェルらは、カントの哲学を、ユークリッド幾何学ニュートン物理学という当時の古臭い科学から切り離した。ストローソンの場合は、カント哲学は、経験の形而上学として解釈され、〈われわれのような経験主体が持たざるをえない基本的概念セット〉の探求になる。マクダウェルはそれを規範的な「理由の空間」の構造の探求として捉える。またストローソンもマクダウェルも「自然主義」を否定し、哲学の固有の対象は、「概念」や「理由の空間」であるとする。

つまりストローソンやマクダウェルにとっては、哲学は科学と切り離された自律的な領域であり、哲学固有の探求対象が存在している。しかし、フリードマンに言わせるとこれはまったくカント的ではない。特にストローソンは、合理的直観によって概念の必然的連関を探求すると言っていて、まったくカントではない。

じゃあ何がカント的なのか?

ここでフリードマンは20世紀の科学的哲学の伝統に目を向ける。非ユークリッド幾何学と相対論の衝撃──カントが総合的アプリオリの典型例としたユークリッド幾何学ニュートン物理学は、必然的に正しいものではなかった──は、論理実証主義者たちにはよく認識されていた。

これに関連して、ライヘンバッハは「アプリオリ」の意味を以下の二つにわけている。

  1. 必然的で改訂不可能で永久不変のもの
  2. 知識の対象の概念を構成するもの

アプリオリ」を後者の意味で捉えるかぎり、それは、われわれの認識の基本的構成要素であるという点では基礎的なものであるが、にもかかわらず歴史的に変化することがありえる。この後者の捉え方によれば、アプリオリなものは、トマス・クーンの「パラダイム」のように、歴史的なものになる(例えば、相対論によって、時間と空間の概念は基礎的なものではなくなった)。言語のフレームワークの変化を受け入れるカルナップの立場も、本来はこのように解釈されるべきものだろう。ライヘンバッハやカルナップらは、同時代に進行していた科学革命を横目に見ながら、それを理論的に捉えようとしていたのだ。

フリードマンは、超越論的哲学の役割を以下のように捉える。

  1. 科学革命が起き、通常科学のパラダイムが使いものにならなくなり、新しいパラダイムが登場する
  2. 超越論的哲学が登場し、新しい科学のパラダイムを明確化する

これは、哲学を通常科学の一部に吸収するような立場とも異なるし、哲学は、科学と切り離された哲学固有の領域だけやってればいいよという立場とも異なる。カントや論理実証主義は、同時代の科学革命を真剣に受け止めた上で、何とかそれを哲学的に捉えようとした。それが超越論哲学だ!ということらしい。

ちなみに、私は未読だが、以上のようなフリードマンのカント解釈は、おそらく以下の著作にまとまっているはずだ。

Kant and the Exact Sciences

Kant and the Exact Sciences

しかし、この立場だと、超越論的哲学は、科学革命が起きてるときしか仕事がないので、普段は何をすればいいんだろうという点が気になった。

Hunter Crowther-Heyck「ジョージ・A・ミラー、言語、心のコンピュータメタファー」

George A. Miller, language, and the computer metaphor of mind. - PubMed - NCBI

心理学史の論文。認知革命前後の話を扱っている。

1950年代、計算機のメタファーは心理学に革命(認知革命)をもたらしたと言われる。それまで主流だった行動主義──つまり、心理学の対象は直接観察できない〈心〉という謎めいたものではなく、外面的に観察できる行動なのだという発想──は打ち捨てられ、「心は存在し、心理学者の仕事はそれを研究することなんだ」と多くの心理学者は考えるようになった。

この論文では、「なぜ計算機のメタファー──つまり人間の心を計算機のようなものだと考えること──がそのような力をもったのか」という問いを扱っている。確かに、よく考えると、これは奇妙な事態だろう。何しろ、心をもたないもの(計算機)とのアナロジーが、なぜか心理学を変え、〈心〉という対象を再び中心に据えるような変化をもたらしたというのだから。著者も指摘するように、人間を一種の機械と見なすという発想は、そもそも行動主義者の中にもあったはずだ。

この論文では、ジョージ・A・ミラーという心理学者の軌跡を追うことで、この問い(「計算機のメタファーはなぜ心理学を変えたか」)に答えている。ミラーは認知革命の最初のきっかけとなった論文「マジカルナンバー7プラスマイナス2」を書いた心理学者だ。一方、ミラーはハーバードでS. S. スティーヴンスの元で行動主義の教育を受けている。ちなみに、ちょうどこの前に読んでいたWorking Knowledgeがこの直前までのハーバード心理学科を扱っていたので、この論文でその後の話を知れて個人的には勉強になった。

ミラーは、シャノンの情報理論に大きな影響を受け、当初はそれを行動主義心理学に取り入れようとするが、しだいにそこから逸脱していく。 著者によれば、コンピュータの比喩が反行動主義につながった理由は三つある。

  1. コンピュータとの比喩は、当時登場しつつあったチョムスキー言語学に結びついていたが、チョムスキーは人間の心によって言語を説明しようとした。
  2. 行動主義は心理学の独立と固有性を主張したが、コンピュータメタファーは学際的なアプローチにつながった。
    • ジョージ・ミラーは戦時中の軍事研究で、学際的なタスクベースのアプローチに慣れていた。
  3. コンピュータメタファーは、心理学に新しい研究プログラムをもたらした。
    • 行動主義者のネズミを使った研究が、人間を使った研究に置き換えられた。

Joel Isacc『働く知識 - パーソンズからクーンまでの人間科学の制作』

Working Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn

Working Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn

ジョエル・アイザックWorking Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn(『働く知識 - パーソンズからクーンまでの人間科学の制作』)を読んだ。著者の専門は社会思想史だが、歴史的アプローチで20世紀北米の人文科学・社会科学の研究をしている。以前このブログでは、この著者のデイヴィドソンと行動科学についての論文を紹介した。私もあまり知らなかったが、最近は20世紀の分析哲学史のような比較的新しい領域も、哲学者ばかりではなく、歴史よりのアプローチで研究が進んでいるようだ。

この本も一部は哲学者を扱うが、分析哲学史の本というわけではない。対象は、ハーバード複合体(Harvard Complex)、つまり20世紀のハーバード大学周辺で形成されていた研究者共同体とそこにおける知的伝統を扱った本だ。心理学者や社会学者を扱った章もあり、学術史(インテレクチュアルヒストリー)としか言いようのない内容になっている。

非常に情報量が多く、扱う範囲も幅広い本なので紹介は困難だが、本書のインパクトを紹介するために、エピローグから引用しよう。

近年の研究は、「驚くべき」、直観に反するように見えるつながりを、クワインとカルナップの間、クーンと論理経験主義者の間、(クリフォード)ギアーツとパーソンズ的行動科学者の間に見出している。しかしそれらの発見が驚くべきものになっているのは、実証主義とポスト実証主義の認識論的対立という叙事詩的歴史によって、私たちの想像力が制約されているからだ。p.236

よくある通俗的歴史観によれば、ヴィラードクワイン、トマス・クーン、クリフォード・ギアーツといった著者たちは、前世代の「科学主義」「客観主義」「実証主義」「行動科学」を批判し、「ポスト実証主義」の時代を作ったのだと言われている。しかし、これらの著者たち──論理経験主義(論理実証主義)の一部、クワイン、クーン、パーソンズ、ギアーツ──はむしろ皆、ハーバード複合体というひとつの知的伝統に属するというのだ。

ハーバード複合体

本書を通じて強調されるハーバード複合体の特徴は以下の2つだ。

  1. 「隙間の学術界interstitial academy」
  2. 科学的哲学scientific philosophy

著者が「隙間の学術界」と呼ぶのは、学科組織からはみだした学際的な研究ネットワークのことだ。20世紀前半のハーバードでは、非公式・半公式の領域横断的なグループがいくつも形成され、横断的な研究の土台となった。論理経験主義者(論理実証主義者)のサークルもそのひとつだ。

「科学的哲学」は、そこに根付いていた知的伝統を指すために著者が使用している語だ。正直この本を読んでもそこまでピンときていないのだが、基本的には〈認識論〉〈科学の研究法〉〈科学の教育法〉をひとつの問題として捉えるような知的伝統のことらしい。「科学哲学(philosophy of science)」という領域が専門分野としてまだ確立しきれていなかった20世紀前半に、マッハ、ポアンカレ、ジェームズのような科学者に人気のある哲学者と、科学者の自然発生的哲学が混ざりあってできた知的潮流と言ってもよいかもしれない。

L. J. ヘンダーソン

アイザックの言うハーバード複合体を象徴する人物をあげよう。それがL. J. ヘンダーソン(ローレンス・ヘンダーソン)だ。おそらくそこまで有名な人物というわけではないし、私はこの本を読んではじめて知った。

だが、ヘンダーソンはハーバードの人脈上のハブとなる人物だ。本人は生化学者だが、生涯を通じて科学哲学や社会科学に興味をもった。パレートの社会学に魅了され、パレートを読む私的なゼミを開催していたが、この集まりには、経済学者のJ.A.シュンペーター社会学者のT.パーソンズ、R.K.マートン、G.ホーマンズなど戦後の有名社会科学者の多くが参加している。ヘンダーソンのパレートサークルは、アイザックの言う「隙間のアカデミー」の典型例のひとつだ。

パレートサークルは、ハーバードの社会科学者たちに「システム」「平衡」「機能」といった語彙を流行させた。またヘンダーソンは、論理経験主義の哲学者やクワインとも交流をもっている。クワインは後年「概念枠組」という語を、「L. J. ヘンダーソンを経由してパレートから受けついだ」と告白している*1。ハーバードにホワイトヘッドを呼んだのもヘンダーソンだ。また疲労研究所を設立し、ホーソーン実験にかかわり、科学教育の一貫として、ハーバードに科学史の講座を導入した。後には、ヘンダーソンが作った科学史の講座から科学社会学のR.K.マートンやトマス・クーンが登場してくる。

本書には、このヘンダーソンのように「何が専門なのかよくわからない」領域横断的な人物がさまざま登場する。確立した専門分野という観点から見れば、どこかうさんくさく感じられるが、こういう人々が新しい分野を作ってきた、あるいは少なくともそれが受け入れられる土壌を作ったというのはよくわかるような気もする。

各章の紹介

各章の登場人物とキーワードを紹介しておく。本書では、ヘンダーソンのパレートサークルの他、行動主義心理学者たちのサークルや、論理経験主義(論理実証主義)者のサークルが紹介される。

時代的には、1章が前史で19世紀末から20世紀初頭、2-4章が20年代から30年代、5-6章が戦後の展開を扱っている。

主な登場人物 隙間の学術界 キーワード
1章 歴代学長?
2章 L. J. ヘンダーソン パレートサークル
ソサエティオブフェローズ
ケースメソッド
3章 P. ブリッジマン
S. S. スティーブンス
B. F. スキナー
心理学者たち 操作主義
新行動主義
4章 W. V. クワイン 科学の科学ディスカッショングループ
間科学ディスカッショングループ
理経験主義
5章 T. パーソンズ レベラーズ
社会関係学部
行動科学
カーネギー理論プロジェクト
6章 T. クーン パラダイム

目次

  • プロローグ: いかにしてパラダイムは作られるか
  • 1章 隙間の学術界: ハーバードとアメリカンユニバーシティの興隆
  • 2章 ケースの制作: ハーバードパレートサークル
  • 3章 科学の制作者は何をしているのか? : 操作主義の回遊
  • 4章 根源的翻訳: W.V.クワインと論理経験主義の受容
  • 5章 レベラーズ: 世界大戦から冷戦の間のハーバード社会科学者たち
  • 6章 革命の教訓: 科学史科学社会学、科学哲学
  • エピローグ: 大いなる脱埋め込み

*1: Quine, W. V. (1981). Theories and Things. Harvard University Press. p.41