Jonathan Gilmore, Apt Imaginings

ジョナサン・ギルモアのApt Imaginingsを5章まで読んだので紹介する。本書はフィクションの哲学に属するかなり新しめの単著である。主にフィクションに対する感情を主題としている。フィクションへの感情を扱う哲学の本というと、「フィクションのパラドクス(どうして存在しないものに感情を抱くのか)」といった問題などをイメージする人もいるかもしれないが、本書のテーマはその種の古典的な問題ではない。他では類を見ない新しい問題を扱った著作だ。

内容を紹介する前に先に本書の良いところと悪いところを紹介しよう。

良いところ

  • オリジナルな問題を立て、新しい角度からフィクションへの感情を扱っている。
  • 新しい心理学の文献や、新しめの感情の哲学の文献がいくつも引用され、経験的研究が豊富に参照される。先端的な科学文献を参照し、フィクション感情に関する議論をアップデートしようという気持ちが感じられる。

悪いところ

  • わかりにくい。

これは良いところと表裏一体かもしれないが、新しい問題を扱っている分、何がやりたいのかがわかりにくいと思う。最終的にどういう主張が擁護されるのかもわかりにくいので要注意。

内容紹介

では肝心の内容を紹介しよう。本書で擁護される主張は、〈フィクションに向けられた感情と、それ以外の日常的感情のあいだには不連続性がある〉というものだ。ただし、ギルモアは記述的不連続性と規範的不連続性を区別している。

  • 記述的不連続性: フィクションに向けられた感情と、その他の日常的感情は、種として異なる。
  • 規範的不連続性: フィクションに向けられた感情と、その他の日常的感情は、異なった規範に従う。

本書で擁護されるのは規範的不連続性だ。ギルモアは記述的不連続性は否定する。フィクションに向けられた感情だろうと、その他の日常的感情だろうと、神経科学的基盤は同じであり、因果的・記述的な違いはない。そのため、ギルモアはケンダル・ウォルトンのようなフィクション感情は真正の感情ではないという立場には組していない。感情が従う規範に不連続性があると言っているのだ。

規範が異なるというのはどういうことか。ひとことでいえば「感情の適切さに関連する考慮事項が異なる」ということだ*1

説明するために、以下のような事例を考えよう。

私がひとりで暗い道を歩いている。道は暗く、さびしく、怖い雰囲気だ。ちょうどその折、近所で工事しているずしんずしんという低音がどこかから響いてきて、私はいっそう怖くなる。

この事例で、私の恐怖には、部分的に工事の音が関わっている。だが、それは恐怖の適切さとは何の関係もない。低音のせいで恐怖が喚起されること自体は理解可能だが、それによって、道がいっそう危険になったり、いっそう恐るべきものになるわけではない。むしろ近所で工事をやっているのであれば治安の意味ではより安全なくらいだろう。音による恐怖の喚起は、因果的には理解可能・説明可能な現象であるものの、規範的意味ではまったく適切ではない。あえて言えば、音はたまたまた私が感じていた怖い雰囲気を偶然盛り上げただけにすぎない。

一方、ここでフィクションの事例を考えよう。ホラー映画を見ている際、(物語外的な)不気味なBGMのせいで恐怖が高まることはあるだろう。ギルモアの考えでは、これはフィクションに関しては、まったく適切な感情的反応だ。実際、制作者はまさにそのような反応をもたらすためにBGMをつけているのだ。

しかし、考えてみれば、工事の音と、不気味なBGMは変わらないのではないだろうか。どちらも「ある種の音が人間の恐怖を高める」という生理的(?)現象に基づいている。そしてどちらの場合も、音は、少なくとも表面上は、対象の危険性とは何の関係もない。映画『シャイニング』のBGMが怖いとしても、その音楽は、オーバールック・ホテルの幽霊が鳴らしているものではない。

だが、フィクションの場合にそれが許容される理由は、さまざまに説明が可能だろう。ギルモアによれば、フィクションにおいて、BGMを恐怖と関係づけることが許容されているのは、特殊な実践的慣習が成立しているためだ。

フィクションや想像の一部の内容への反応においては──信念や知覚の内容への反応とは違って──、私たちが特定の仕方で感じることが引き起こされたというだけの事実であっても、そのように感じる理由になることが起こりえる。というのは、特定の感情を喚起することで、フィクション作品や命令された想像は、鑑賞者が虚構の対象・想像の対象に、特定の評価的質を帰属させるように仕向けるからである。p.132

要するに、フィクションの場合は「BGMを聞いて怖くなったのであれば、その恐怖を映画の中のモンスターに帰属させていいですよ」規則が慣習的に受け入れられている。怖いBGMの怖さをオーバールック・ホテルの幽霊たちに投影してもいいのだ。この慣習の存在こそ、ギルモアの言う規範の不連続性である。

以上では、BGMを例にあげて説明したが、ギルモアは実際にはかなりいろいろな例をあげている。その中には主役級のキャラクターを美形にすることによって、共感しやすくするという例もあって、なかなかおもしろいがここでは逐一紹介はしない*2

余談

私は昔「図像的フィクショナルキャラクターの問題」という論文を書いたことがある。その中で、マンガやアニメの場合、デフォルメされたキャラクター図像の美的性質をキャラクターに帰属させることが慣習的に許容されていると論じた。今回ギルモアの著作を読んでいて、ギルモアが論じている現象は、私が論じていた慣習のより一般的な説明になっているのではないかと思った。

*1:ちなみに、ギルモアは規範の不連続性を説明するために、近年の理由の哲学の概念を使用している。実際にはそれほど難しい話をしているわけではないのだが、この辺の用語に馴染みがないと本書は読みにくいかもしれない。

*2:美形の例だけ、注で説明しよう。人間は無意識に美形に好感を抱く。そのため主役級のキャラクターを美形俳優に演じさせておけば(あるいはマンガやアニメで美形に描いておけば)、観客は勝手に主人公に共感し、「こいつはいいやつだ」と思い込むのである。美形と〈いい人〉性のあいだには、本来は合理的な結びつきはないが、フィクションの場合、そのような投影が許容されている、という話。