初期分析美学における芸術創造論

ヴィンセント・トマスの"Creativity in art"および周辺の文献をちょっと調べたので備忘録的に残しておく。

Tomas, Vincent (1958). Creativity in art. Philosophical Review 67 (1):1-15.

ヴィンセント・トマスのこの文献に関しては、少し前に出た村山正碩「意図を明確化するとはどういうことか: 作者の意図の現象学」が詳しい。

村山はトマスの論文を、以下の「トマスのパズル」を提示するものとしてまとめている(p.105)。

  1. 芸術制作は芸術家によってコントロールされている。
  2. 行為者が自分の行為をコントロールする典型的ケースでは、生み出したい結果を意識し、目の前の現実がその結果と一致するように作業を進める。
  3. しかし、芸術制作では、芸術家は生み出したい結果を(現実がそれに一致すれば、作品が完成するほど)十分に意識しているわけではない(それが可能なとき、創造的プロセスは終了している)。
  4. したがって、芸術制作は典型的ケースのようにはコントロールされない。
  5. では、芸術制作はいかにコントロールされるか。

以上の問題に対するトマスの回答は、〈芸術家は、自身の目的を明確に述べられないまでも、そこから外れれば「キックされる」ように気づくことができる〉というものだ。

私がこの論文に興味をもったのは「現代でもあまり扱われない制作論・創作論であること」「制作プロセスの内実に踏み込んで論じている」というあたりの理由による。ちなみに、私は村山の論文を読むまでトマスの論文を知らなかったのだが、比較的最近書かれたサーベイなどでも言及される論文なので、超有名とは言えないまでもそれなりに評価されている論文とは言えるかもしれない*1

同時代の反応など

寡聞にして、私はヴィンセント・トマスという哲学者についても知らなかったのだが、訃報などを読むと、少し経歴がわかる。C.J. Ducasseの弟子で、戦後ブラウン大学で活動した美学者という感じのようだ。"Creativity in art"は当時もそれなりに話題を読んだらしく、トマスが批判するDucasseやEliseo Vivasの論文とともにCreativity in the Artsという論文集にまとめられている(現在は入手困難)。トマスにしろ、Ducasseにしろ、Vivasにしろ現在よく知られているとは言いがたい名前だが、掘っていくと、現代の美学ともそれほど変わらない主題を扱っていて、なかなか興味深い。もう少し有名な名前をあげると、モンロー・ビアズリーもトマスに応答している。"On the creation of art"という論文は、この辺りの議論に触れたもので、ビアズリーはトマスの立場を有望なものと捉えていたようだ。

Beardsley, Monroe C. (1965). On the creation of art. Journal of Aesthetics and Art Criticism 23 (3):291-304.

せっかくなのでビアズリーの論文をもう少し紹介しよう。ビアズリーは、作品創造に関する立場として「推進理論Propulsive Theory」と「終局理論Finalistic Theory」のふたつを検討している*2

推進理論: 作品の創造プロセスを制御するものは、創造プロセスに先駆けて存在する。

終局理論: 作品の創造プロセスは、終局的なゴールによってコントロールされる。

終局理論の方は、トマスが批判している立場であり、「ゴールと照らしあわせることによって作品の創造プロセスがコントロールされる」という立場である。一方推進理論の例として、ビアズリーコリングウッドの表出説をあげている。(ビアズリーがまとめたところの)コリングウッドの立場によれば、芸術家は、創造プロセス以前から存在する感情に突き動かされ、作品制作を通じて自身の感情を明確化する。推進理論は「衝動志向説」、終局理論は「ゴール志向説」と呼び換えてもいいかもしれない。

普通に考えれば、トマスの立場は推進理論に分類されそうだが、ビアズリーはトマスを第三の立場に分類し、作品創造を「自己訂正過程」と捉える立場だとしている。ちなみに、村山は明らかにトマスをコリングウッドに近い立場に置いているし、同時代のHausmanもトマスを推進理論に類する立場に分類しているため、この点ではおそらくビアズリーが異端だと思われる。ビアズリーはその上でトマスに賛同し、トマスを拡張するような議論を行なっている。ここではこの立場「自己訂正理論」とでも呼ぼう。

自己訂正理論: 芸術家は作品を作りながら、試行錯誤を繰返し、何度も方向転換を行なう。創造プロセスはこの自己訂正過程によってコントロールされる。

私の理解では、推進理論と自己訂正理論の違いは、〈同じひとつの衝動が制作プロセスをコントロールしつづけているか〉にある。推進理論の場合、衝動は過程を通じて存続しつづけるが、自己訂正理論の場合、芸術家を動かすものは、創造プロセスの過程でコロコロ変わってもいい。一方、トマスは、この論点に関して明確な立場を打ち出していない。トマスが述べているのは「芸術家は、自身の行きたいコースから外れそうになるとキックされるように気づく」というだけなので、衝動が最初から一貫しているかどうかについてはあまり述べていないのだ。そのため、トマスをどう位置づけるかに関してズレが生じているように思われる。

なお、ビアズリーの論文は途中までまじめに制作プロセスの話をしているのだが、最終節でいきなり手の平を返し、「自分は反意図主義なので、制作者の意図の話はしない!」と言いだし、「作品は鑑賞者によって作られる」という話をはじめる。その辺りはやや残念な感じである。

*1:例えばGaut, Berys (2010). The Philosophy of Creativity. Philosophy Compass 5 (12):1034-1046.

*2:Carl R. Hausman, "Mechanism or Teleology in the Creative Process"という別の論文でもほぼこれと同様の整理を行なっているので、これは当時よくある整理だったと考えていいだろう。