Jon Elster, Ulysses Unbound

ヤン・エルスター(『酸っぱい葡萄』*1の人)のUlysses Unboundという著作のIII部が芸術論らしく、ちょっと興味があったので読んでみた。わたしもエルスターのことはよく知らないのだが、エルスターは本業では合理的選択理論などを使って、合理性の哲学を研究している研究者だ。本書でも、芸術作品の制作を「制約のもとでの美的価値の最大化」というある種の合理的プロセスと捉え、さまざまな事例を扱っている*2*3

制約とは何か。エルスターは作品制作における制約の例をさまざまにあげているが、わかりやすいところだと、形式やジャンルによる制約がある。詩における韻律や、俳句の音数の制約などをイメージしてほしい。他にも、「ホラーだから怖い場面を入れなければならない」「子どもむけだから暴力的なシーンは入れられない」といったジャンルによる制約を考えてもいい。

エルスターの考えでは、この種の制約には、作品制作上のメリットがある。というのは、無制約だと、探索すべき可能性の範囲が広すぎて、有益な選択肢を探索できないからだ。自由すぎるとかえって何も思いつかないのだ。そこで何らかの制約を取り入れることで、探索範囲を狭めることにメリットがある。探索には適切なサイズがある。だからこそアーティストは、形式やジャンルを選択し、そこである程度の制約を受け入れてから、その制約内で作品を作るのだ──エルスターは前者を「制約の選択」、後者を「制約内の選択」と呼ぶ。

またこの種の制約には、アーティストが自分で選ぶものもあれば、外から押しつけられるものもある。後者の例としてエルスターはハリウッド映画で60年代くらいまで使用されていた悪名高いヘイズ・コードの例をあげる。ヘイズ・コードは暴力描写や性的描写を厳しく規制していた。こうした規制は、さまざまな問題をもたらしつつも、作品の質を向上させたと言われるような側面もあるらしい。

本書では、この種のケーススタディがいくつか紹介されていて、なかなかおもしろい。

さて、以上がまえおきで、以下では、個人的におもしろかったローカルな極値の話を紹介したい。下記は本書に登場する想像上のグラフである。

ふたつの山があるグラフの画像。左側が小さく、右側の山の方が大きい。
Fig.III.1(p. 203)

エルスターによれば、作品の美的価値には、ローカルな極値がある。まず「小粒だが、完成度の高い作品」というのをイメージしてほしい。単純化して二次元のグラフで考えると、こうした作品は、上のグラフのAのような位置(小さな山のてっぺん)にあると考えられる。これはどういう状態かというと、ブラッシュアップをしつくして、周辺では一番価値の高い状態にあるということだ。ここからさらにジャンプするには、作品を大きく変更して、右側の大きな山に登るなどするしかない。だが、それをやるとおそらくブラッシュアップでは済まない大きな改変になるだろう。

一方「荒削りな傑作」はCのような位置(大きな山にあるが、頂上ではない)にあると考えられる。まだまだ価値を高められるという意味では、改善の余地はあるのだが、それでもグローバルに比較すれば、Aの位置にある小粒な作品よりも優れた価値をもっている。

エルスターはそれぞれ短篇小説と長編小説の例をあげているが、確かに、短篇小説はAのような位置、長編小説はCのような位置を目指すことが多いというイメージはあるかもしれない。また、エルスターはラシーネとシェイクスピアの比較を紹介している。世評では、ラシーネの方が完成度が高く、シェイクスピアには目立った瑕疵がある。だが、にもかかわらず総体としては、シェイクスピアの方が素晴しい、と。こうした評価において、ラシーネはAのような位置、シェイクスピアはCのような位置に、それぞれ位置づけられていると考えられるかもしれない。

*1:

*2:本書では「美的価値」という語が使われているのだが、エルスターは美的価値と芸術的価値を区別しておらず、実際は「芸術的価値」と呼んだ方が適切かもしれない。

*3:本書に対する美学者の応答としてはレヴィンソンによるものがある。以下の本でレヴィンソンはエルスターに対するやや批判的な応答論文を書いている。