ゲシュタルト知覚について

ゲシュタルト知覚またはアスペクト知覚について自分なりに説明してみる。なぜこの記事を書こうと思ったか。ゲシュタルト知覚の話は、別にそんな難しい話ではないはずなのだが、なぜかピンと気づらいものらしく、理解していない人が結構いるという印象をもっているから。また、あまり丁寧に説明した文章を見たことがないため(どこかにはあると思うが)。なぜ大晦日にそんな文章を書いているのかはよくわからない。

ゲシュタルト知覚とは何か。基本的には〈要素の知覚に還元できない知覚〉と覚えればいい。そのようなものが存在することは、以下のように論証できる。

ウサギ-アヒル

出典

有名なウサギ-アヒル図である*1。この図はウサギのように見えたり、アヒルのように見えたりする。また、ウサギでもアヒルでもなく、単なるインクの固まりのように見ることも可能かもしれない。以下を読む前に、まず自分なりに上の図を見て、ウサギ状態、アヒル状態を行き来してみることをおすすめする。

ゲシュタルト知覚があることを示す論証としては以下のようなものが考えられる。

  • 前提1: ウサギ-アヒル図には次の3つの〈見え〉がある。
    1. ウサギに見える
    2. ヒルに見える
    3. どちらにも見えず、単に線の固まりに見える。
  • 前提2: 前提1における〈見え〉の違いは、知覚の違いである。
  • 前提3: 前提1における〈見え〉の違いは、部分知覚の違いによっては説明されない。
  • 結論: よって、 前提1における〈見え〉の違いは、ゲシュタルト知覚によって説明される。

前提1、2、3を認めた人は、まさにそのことによって、「部分知覚の違いによって説明されない知覚上の違いがある」ということを認めたことになる。ところで定義上ゲシュタルト知覚とは、部分知覚に還元できない知覚のことだった。よってゲシュタルト知覚はあるのである。

もう少し説明する。まずゲシュタルト知覚のような現象が、視覚神経のシステム上どのように実装されているかというのは難しい問題だが、ここではそういう話はしていない。単に「こういう現象あるよね」という話をしている。

以上のような説明を聞いた際、ピンと気づらいというか、何となく戸惑いを感じさせるのは前提1の部分が基本的に内省に基づいてしか確認できないせいもあるかもしれない。「見え方の違い」というのが、フワフワした手応えのないものであるように感じられるのだ。だが、そこをスルーすると、この話はまったく理解できなくなる。というかフワフワしてるように感じられるのは気分の問題なので、「ウサギ状態!」「アヒル状態!」と叫びながら、見え方の違いを10回くらい往復することによって、両者の違いが確実にあることをまず確認してほしい。その上で、ウサギ-アヒル図は、ほぼ全人類が追体験できるものであるし、追体験の仕方もきわめて簡単なので、全面的な懐疑論に陥らずに前提1を疑うのはかなり難しいのではないだろうか。

前提2の部分は、この違いが、知覚の違いであることを述べている。私なりの言葉で言えば、(a)(b)(c)の違いは、まず見え方の違いであるし、視界の中に現われている違いである。これを視覚と無関係な信念や判断の違いと捉えるのは無理があるだろう。信念の違いは、普通視界の中に現われない*2

前提3の部分は、(a)(b)(c)の違いが、「どこかを見間違えている」とか「特定の線が見えていない」という違いではないことを述べている。そうではなく、すべて正しく見えていても、ウサギに見えたり、アヒルに見えたりすることはある。

よくある説明としては、ゲシュタルト知覚を知覚における注意のあり方の違いとして説明する路線がある。だが、それはゲシュタルト知覚の存在と矛盾するものではなく、ゲシュタルト知覚の存在を前提した上で、それに説明を与えようとする試みである。ここではその種の説明に深入りはしない。

少なくともゲシュタルト知覚があるということに関しては、上記の説明で十分だろう。

*1:これはウィトゲンシュタインが使った図として有名だが、ここではウィトゲンシュタインの考えを説明しようとしているわけではない。

*2:認知的侵入と呼ばれる現象があるという主張はもっともだが、認知的侵入というのは信念の違いが知覚の違いを引き起こすという現象であって、知覚の違いなしに、信念の違いが視界の中に現われるという現象ではない