ノエル・キャロル「ホラーの本質」

Noël Carroll, The nature of horror - PhilPapers

Carroll, Noël (1987). The nature of horror. Journal of Aesthetics and Art Criticism 46 (1):51-59.

だいぶ間が空いてしまったが一応SFファンタジーに関する論文を紹介したので、ホラーに関する論文も紹介する。

これはのちに『ホラーの哲学』の1章の一部になった論文だ。書籍の方も読んだ。基本的な主張は変わってないが、書籍の方が長いのでそちらを読めばいいと思われる。

The Philosophy of Horror: Or, Paradoxes of the Heart

The Philosophy of Horror: Or, Paradoxes of the Heart

この論文でキャロルは、ホラージャンルがもたらす固有の感情を特徴づけることで、ホラージャンルの本質を特定しようとしている。ホラー特有の感情は、「アートホラー」という名前で呼ばれている。

キャロルによれば、感情の種類は、特定の状況の認知と身体反応によって特定される。よって、アートホラーを特定するには、アートホラーがどんな身体反応と、どんな状況の認知を伴うかを特定すれば良い。

また、このアートホラーの感情を特定するために、キャロルは、次のような手順を踏んでいる。まず、ホラージャンルにおいては、鑑賞者に期待される反応は、登場人物の反応と一致すると考えられる。さらに、ホラージャンルにおける登場人物の反応は以下のようにまとめられる。

登場人物は、何らかのモンスターXと遭遇することで、以下のような反応に陥る。

  1. 身体反応: 震え、悪寒、叫びなどの正常でない身体的動揺状態
  2. 状況認知: モンスターXは危険threateningで不浄impureなものである
  3. 1の身体反応は、2の状況認知によって引き起こされる。

これがそのまま観賞者に期待される感情(=アートホラー)の構成要素となる。

ポイントは、危険と不浄の両方が必要だという部分にある。モンスターが危険なだけであれば、引き起こされる感情は、危いものへの恐れfear(コワイ)になる。モンスターが不浄なだけであれば、引き起こされる感情は、嫌悪disgust(キモイ)になる。アートホラーには、この両方が必要であるとされる。

不浄

「不浄」という部分はわかりにくいが、キャロル説の特徴的な部分でもある。キャロルは、メアリ・ダグラスに依拠した上で、不浄なものは、多くの場合、境界侵犯的なものや不定形のものであると説明している。要するに、人間の嫌悪を引き起こすような性質だ。具体的に不浄なものの例としてあがっているのは、

  • 生と死の境界を侵犯するもの: 幽霊、ゾンビ、ミイラ、フランケンシュタインの怪物
  • 無生物と生物の境界を侵犯するもの: 意志をもった家、ロボット、殺人自動車
  • 異なる種を組み合わせたもの: 狼男、蜥蜴男
  • 複数の個体の融合: ジキルとハイド、悪魔憑き
  • 特定のカテゴリーの部分しかないもの: 動く手

確かに、単純に「危険で恐い」だけではなく、日常的な理解を攪乱したり、タブーに触れる要素が重要な気もする。

私見では、ホラーの登場人物はオープンマインドで寛容な人間ではなく、偏見に満ちた狭量で保守的な人間であった方が良いと思うのだが*1、それはおそらくこの要素と関連しているのではないかと思った。つまり、狭量な人間が焦点になっている方が、モンスターによって境界を攪乱されやすくなるので、よりアートホラーが高まるのではないかと考えられる。

またキャロルも指摘しているように、モンスターは日常世界の外から来る(宇宙、地中、海など)というのもこうした境界侵犯性と結びついていると考えられる。

*1:そして実際そのように設定されることが多いと思うのだが。

Laetz Brian & J. Johnston Joshua, ファンタジーとは何か

Laetz Brian & J. Johnston Joshua, What is Fantasy? - PhilPapers

Laetz Brian, & Johnston Joshua J., (2008). What is Fantasy? Philosophy and Literature 32 (1):161-172.

ファンタジージャンルの特徴を述べた論文。作品がファンタジージャンルに分類される条件を論じている。

ファンタジーの条件

まず、ファンタジージャンルの特徴として、ドラゴンやエルフや魔法のような超自然的なものに訴えるのは自然な見解だろう。しかし著者によれば、現代的なファンタジー作品は、神話や宗教作品からは区別される。例えば、死後の世界の存在を主張する宗教団体が作った映画に死後の世界が登場しても、それはファンタジーとは見なされないだろう。

一方で、ファンタジーは神話や伝説に深く影響を受けてもいる。古典的なファンタジー作品の多くは、ヨーロッパの神話や伝説に材をとったものだが、近年では、アジアやイスラム圏の伝説に基づいたファンタジー作品もある。神話や伝説の「転用」は、むしろファンタジーの本質的な条件に思われる。

そこで著者らは、神話とファンタジーのねじれた関係をそのまま条件に組み込む。

  • ファンタジーには、神話・伝説・民間伝承に影響を受けた超自然的な内容が含まれる。
  • 観衆の大部分はこれらの内容を信じていない。
  • 観衆はそれらが別の文化によって信じられていたと信じている。

要するに「昔の人が信じていた神話を、もはやそれを信じていない現代人が別の目的に転用したもの」がファンタジーだ。ただし、この条件は多少複雑化されている。「実は古代ギリシア人もギリシア神話を大して信じていなかった」というのはありえる事態だが、それによって、ある作品がファンタジーでなくなることはない。古代ギリシア人がギリシア神話本当に信じていたことは必要ではない。現代のわれわれがギリシア神話を、「かつて信じられていた神話」と見なしているだけで十分だ。

さらに、著者たちは超自然的内容の使用のされ方に関して、細かい条件をいろいろ付けている。

  1. それらは目立った形で登場する
  2. それらは自然化されていない
  3. それらは寓意的にのみ使用されているのではない
  4. それらは単にパロディとして使用されているのではない
  5. それらは単にバカげたものではない
  6. それらは主として観衆を怖がらせることを意図していない

映画の中で2分だけ魔法使いが登場するだけで、作品全体がファンタジーになるわけではない。ファンタジーは、超自然的なものを主要な要素とする作品でなければならない。また、神話を科学的に説明するタイプのSFはファンタジーではない。

また、喋る動物が寓話のためにのみ登場する作品、例えば『動物農場』はファンタジーではない。パロディやギャグのためだけに魔法使いやドラゴンを登場させる作品もファンタジーではない。恐怖のために超自然的なものを導入する作品はホラーであってファンタジーではない。

また、それ以外の条件として、ストーリーにアクションの要素が含まれること、フィクションであることも要請されている。

ぜんぶまとめて書くと「ファンタジーとは、フィクションのアクションストーリーであり、神話・伝説・民間伝承に影響された超自然的内容を目立った形で含む。さらにその内容は観衆の大部分によって信じられておらず、観衆はそれらが別の文化によって信じられていたと信じている。さらにそれらは自然化されておらず、もっぱら寓意的使用、単なるパロディ、単にバカげたもの、主として観衆を怖がらせることを意図していない。」となる(長い)。

驚異

「恐怖のためであってはいけない」「パロディのためであってはいけない」というネガティブな条件がたくさん付くことに疑問を抱く人もいるだろう。私もそこは変だと思う。そういったネガティブな条件の集積ではなく、ファンタジーに固有の目的を特定し、「超自然的な内容が、主としてXという目的のために使用されている」という積極的な条件を入れればいいのではないだろうか。

一方、ファンタジーに固有の目的の候補がひとつある。それは驚異wonderの感情を喚起することだ。ホラーが恐怖を喚起するのと同じように、ファンタジーは驚異を喚起するというのは自然な捉え方ではないか。

ところが、著者たちは、これに疑問を呈している。まず、多くのファンタジー作品は驚異を喚起しないし、大人向けのダークファンタジーなどは驚異の喚起を意図したものではないだろうというのだ*1。そのため、驚異がファンタジーの伝統において重要な要素だったことは疑いないが、ファンタジーの条件には入らないだろうと著者らは主張する。ここは少なくとも疑問の余地のある部分ではあるだろう。

感想

「神話からの転用」というのは、少なくともファンタジーのひとつの典型的な形を取り出すことには成功していると思うが、ファンタジーもいろいろあるから難しいなと思った。例えば世界幻想文学大賞 World Fantasy Awardはファンタジーの賞だが、SFやホラーに近いものが受賞することもある*2。有名なところでいうと、2010年の受賞作であるチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』は、超自然的なものがいっさい出てこない。にもかかわらず『都市と都市』には確かにファンタジーの要素がある感じもするし。それが何なのかというと、やっぱり「驚異」というしかないのではないか*3

単なるアイデアではあるが、「神話から流用した要素が、少なくとも当初は、驚異の喚起を意図して導入される」という形の条件にすればいいのではないだろうか。ファンタジー慣れした観衆にとって、ドラゴンや魔法使いがすでに驚異を喚起しないとしても、ドラゴンや魔法使いはもともと驚異の喚起を目的に導入されたものだから、ファンタジーの構成要素たりえるのだという発想だ。いわゆるジャンルファンタジーが、使い古された要素しか含んでおらず、ほとんど驚異を喚起しないとしても、かつて驚異を目的とした道具立てを含んでいればファンタジーに分類されるという形だ。

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

*1:英語のdark fantasyがどういう作品を指すのかよくわからないなと思った。

*2:日本語だと「ファンタジー」と「幻想文学」はちょっと使いわけがあるような気もするが、英語だとその辺どうなのだろう。

*3:『都市と都市』がファンタジーに分類されるかどうかは微妙だが、なぜ『都市と都市』が最低限のファンタジー「っぽさ」をもっているかというと、驚異を喚起するからだということ。

Simon Evenine, 「でもこれってSFなの?」 - サイエンスフィクションとジャンルの理論

Simon J. Evnine, “But Is It Science Fiction?”: Science Fiction and a Theory of Genre - PhilPapers

Evnine, Simon J. (2015). “But Is It Science Fiction?”: Science Fiction and a Theory of Genre. Midwest Studies in Philosophy 39 (1):1-28.

目次

  1. ジャンルに対する二つのアプローチ
  2. 所属、定義、規範性
    1. 所属と定義
    2. 規範性
  3. ジャンルを巡る争い
    1. マーガレット・アトウッド
    2. パミラ・ゾリーン「宇宙の熱死

@pubkugyo さんに教えてもらった。作品のジャンルについて論じた論文。特に具体的なジャンルとしてSFを取り上げ、SFにおけるジャンルの定義論争などに触れつつ議論をしている。著者は、デイヴィドソンの解説書などでも知られる哲学者。

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

著者は、ジャンルに関する理論を以下の2つにわける。

  1. 概念領域説
  2. 歴史的個物説

概念領域説によれば、ジャンルとは、作品を分類する方法である。概念領域説に分類される代表的な見解として、著者は、クラス説(ジャンルとは作品の類classである)、性質群説(ジャンルとは性質の集まりである)などをあげる。

一方、著者自身が採用する、歴史的個物説によれば、ジャンルとは、特定の起源と歴史と地理的位置をもつ個物である。より具体的には、ジャンルは、「ユダヤ的伝統」となどと同じ、伝統traditionの一種であるとされる。この立場では、ジャンルの中には、作品だけではなく、作家や読者コミュニティやさまざまな慣習が含まれる。ジャンルを一種のムーブメントと捉える立場だと言った方がわかりやすいかもしれない。

著者は、歴史的個物説の利点として以下の点などをあげる。

  • ジャンルの歴史性(歴史的変化など)をうまく認められる。
  • ジャンルを巡る争い(「これってSF なの?」)をうまく認められる。

特に後者の点は、著者が重要視しているものだろう。ここはわりと疑問もあるのだが、おそらく著者は、概念領域説をとった場合の帰結を以下のように考えている。

概念領域説をとった場合、ジャンル名の指示対象は、作品の類や、共通の性質群である。従って、「SF」のようなジャンル名の意味は、分類を可能にする記述の集まりになると考えられる。例えば、「SF」の定義は「宇宙船、光線銃、タイムマシン、ロボットが出る作品」といったものになるかもしれない。

仮に「SF」の定義がこういったものだとすると、「SF」という語の意味を知っている人は誰でも、何がSFに分類されるのかを容易に知ることができるはずだ。どの作品がSFに属するかに関して対立が生じることはありそうにない。もちろん、二人の人が「SF」という語を異なる意味で使っていれば、見かけ上対立が生じるかもしれない。しかしそれは、ただの言葉づかいを巡る争い(「SF 」という語をどういう意味で使うべきか)だろう。ところが、これは現実に生じていることとは違う。現実には「これってSFなの?」という議論がいたるところで生じているし、もっと実質的な対立があるように見える。

一方、著者のような伝統説をとった場合、もっと実質的な対立が生じる余地がある。伝統説では、「SF」という語は、ある特定の伝統を指示する。しかし伝統は個物なので、ジャンル名の意味を知っているからといって、作品の分類原理を知ったことにはならない(というかおそらく著者はジャンルには分類原理などないと考えている)。ジャンル名は、特定の伝統を「あれ」といって指すようなタイプの語で、分類の原理については何も教えてくれない。また、伝統に関して争いが生じるのもよくあることだ。「これってSFなの?」という争いは、「何がこの伝統の後継者か」と巡る争いとして理解できる。そこには正解はなく、単に権力を巡る争いが生じているのかもしれない。

感想

ジャンルは伝統であるという立場自体はそんなに悪くないし、歴史的変化を認めたいというのもわかるような気はする。ただし、ジャンルの決定には正しい答えは何もなく、影響関係と権力争いだけで決まっているというのは、かなり変じゃないかと思った。

著者はSFを例にしているが、ジャンルにはもっと違うタイプのものもあるだろうというのも気になる。登場人物や舞台によって規定されるジャンルというのもある。例えば、スパイものというジャンルは、おそらく規定の一部に〈登場人物がスパイであること〉を含むだろう。また、西部劇は〈開拓時代のアメリカ西部を舞台にする〉といった規定をもつだろう。こうしたジャンルに関しても、スパイや西部がジャンルの分類に関して何の役割も果たさないというのは、変な立場だろう(少なくともそれは、ジャンルを巡る実践を捉える上では大きな欠陥を持つ立場だろう)。

ただ、著者の言っていることにはもっともな部分があって、例えば、西部劇のファンコミュニティが先鋭化し、「舞台が西部であることが重要ではない、西部のスピリットが大事なんだ。SF西部劇はありだよ」とか言いはじめるような事態はありえるかもしれない。その結果として、開拓時代ではなく未来世界を舞台にした西部劇が認められるというのは、別にあってもいいような気はする。というか、現実にそういうことはあるだろう。でも、それを認めた上でも、ジャンル分類が一定の理由と合理性に基づいてなされていることは捉えられるのではないか。

Kendall Walton, 「なんて素晴しい!」

Kendall L. Walton, How marvelous! Toward a theory of aesthetic value - PhilPapers

Walton, Kendall L. (1993). How marvelous! Toward a theory of aesthetic value. Journal of Aesthetics and Art Criticism 51 (3):499-510.

Marvelous Images: On Values and the Arts

Marvelous Images: On Values and the Arts

ウォルトンの美的価値論。この論文では「美的価値」という語を使っているが、どちらかと言えば「美的経験」や「美的快」を論じたものとして読んだ方がいいかもしれない。

「美的に価値がある」と言われるものは、(1)きわめて多様であり、さらに(2)他のさまざまな価値にともなうという特徴をもっている。例えば、ある作品に美的な価値があると言われる場合、それは刺激的であるかもしれないし、感情をゆさぶるかもしれないし、洞察やカタルシスを与えるかもしれない。考えさせるかもしれないし、日常からの逃避を与えるかもしれない。人を道徳的にするかもしれないし、人生の指針を与えるかもしれないし、宗教的体験を与えるかもしれない。美的な価値はときに、実践的価値や認知的価値や道徳的価値や宗教的価値に付属する。

ウォルトンは、美的価値を、一階の評価判断を対象とする高階の態度的快によって捉えるよう提案する。例として、巧みな技術を称賛するようなケースを考えてみよう。例えば、私が素晴しい楽器の演奏に触れ、心から称賛の態度をとるとしよう。このとき私は、演奏技術を称賛するだけではなく、演奏が称賛の態度を生じさせたことに快を見出すかもしれない。素晴しい演奏に接し、それを味わうことは、称賛だけではなく、ときに称賛による快をもたらす。

以上の事例で私は、(A)素晴しい演奏を称賛し、(B)さらに素晴しい演奏を称賛することに快を見出している。前者の演奏に対する称賛が「一階の評価判断」にあたり、後者の快が「一階の評価判断を対象とする高階の態度的快」にあたる。単純に言えば、「評価」と「評価による快」の二つがある。

実際、「鑑賞」とか「味わう」という語には元々この両者の意味がある。それは単に素晴しい演奏を享受するという意味ももっているし、それを評価することも意味している。

提案された分析はだいたい以下のようなものだ。

美的快: 称賛などの評価にともない、評価を対象とする快。

xが美的価値をもつ: xに対して美的快をもつことが適切である*1

この立場の特徴は、美的価値があるから称賛するのではなく、称賛による快が美的価値であるという風に説明を逆転するところ。

この説の魅力は、以下の2つにあるとされる。

  1. 一階の評価判断は、かなり多様なものであっていい。このため、一階の評価判断をいろいろ交換することで、美的価値の多様性をうまく捉えることができる。
    • 例えば、技術の称賛ではなく、畏怖・驚異といった評価判断と、それにともなう快を考えることで、自然美の美的価値にも適用できるといった可能性が検討されている。
  2. また、 一階の評価判断は、実践的価値・認知的価値・道徳的価値などの判断であってよい。このため、美的価値は、実践的価値・認知的価値・道徳的価値などに付属するものでありえる。
    • 美的価値に美的価値がともなうという「ブートストラップ」の可能性も示唆されている。

また、この説は、芸術における技術志向をうまく説明するかもしれない。芸術には、制度外から見れば無意味に思えるような技巧の追求がともなうことがある。音楽における超絶技巧演奏、複雑な対位法、絵画における極端な写実主義、文学における韻律などは、時に美的価値を高める手段であるという側面を越え、それ自体が目的として追求される。

美的価値が「評価による快」によって構成されているとすれば、この現象は実にうまく説明できる。評価による快が目的なのであれば、技巧を手段と捉える必要はなく、技巧の追求自体が自己目的化していくだろうからだ。

また書籍版のPostScriptでは、マイナスの評価判断に快が伴うケースを考えることで、B級映画の快を捉えられるかもしれないという話があって、そこもおもしろかった。

*1:「適切である」の部分は、おそらく美的判断の規範性を捉えたいのだと思うが、あんまり詳しく説明されていない。

ウォルトンとグッドマン - Kendall Walton, 表象は記号か

2017-05-09追記: 後半を中心に大きく書き直した。

芸術の言語

芸術の言語

ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』には、文学・絵画・建築・音楽といったさまざまな表象芸術のカテゴリーを、体系的に位置づけ・比較するという側面がある。

この点で、グッドマンとウォルトンの体系的な比較ができないかということをぼんやり考えている。なぜ両者を比較する必要があるかというと、話は簡単で、上記のようなこと(各芸術形式の体系的な位置づけ)をやっている人が、そもそもこの二人くらいしかいないからだ。

しかし、そもそも枠組が全然違う上、両者とも常識とは乖離した異様な発想をしているので比較もかなり難しい。ところが、実は都合よく、ウォルトン自身がキャリアの初期にグッドマンのプロジェクトを批判した論文がある。これは上記のようなことを考える上でのとっかかりには良いかもしれない。

なお、この論文はおそらくMMBの3章7節の元になったものであるため、内容はそちらと大きく重なっている。

Kendall L. Walton, Are Representations Symbols? - PhilPapers

Walton, Kendall L. (1974). Are Representations Symbols? The Monist 58 (2):236-254.

表象

タイトルには「表象は記号か」とあるが、ウォルトンの結論は「表象は記号ではない」というものだ。そもそも表象は記号システムではないので、表象芸術を記号システムの枠組で捉えようとするのはまちがいだ。

なお「表象」という語には多様な意味があるが、ここでは基本的に表象芸術に属する作品、ないし表象芸術特有の表象機能を指す*1*2。それは小説、映画、マンガ、絵画、彫刻などを含んでおり、おおむねフィクションと(具象的な)美術を合わせたくらいのカテゴリーだと思っておけばいい。

また注意点として、ウォルトンは、「まじめな主張」と表象をまったく別のものだと見なしている。手紙や新聞記事や論文のように、主張を行なうものは、表象ではない。おそらく、グッドマンは、言語の「まじめな使用」と、表象芸術の間にそこまで差を認めないだろう。一方ウォルトンは「両者にはそもそも何の関係もない」くらいのことを考えている。サールのようにフィクションを言語の「まじめな使用」の派生態と見なす人とも違って、ウォルトンは、表象芸術と、「まじめな主張」の両者を、まったく別の生き物だと見なしているからだ。

記号

グッドマンは、表象芸術を記号システムと見なすが、「記号」という語に厳密な定義を与えているわけではない。しかし、およそ「記号」と呼ばれるものであれば、対象指示denotationが可能でなければならないだろう。もちろん、グッドマンは、指示対象を持たない個別の記号があることを認めるが、記号システムは、原理的には指示対象をもちうるようなものでなければならない。そもそも原理的にさえ指示対象をもたない体系を記号システムとは呼びづらいだろう。

ウォルトンが異論をぶつけるポイントはここだ。表象はそもそも、指示機能をもたなくてもよい。もう少し細かく言うと、グッドマンは、「個体への指示」と「性質(ないしクラス)への指示」の両方を認める。ウォルトンは両者ともに反対している。

主要な議論は2つで、「ウォルトピアの思考実験」と「行為とのアナロジー」によるものだ。

ウォルトピアの思考実験

まえおきしておくと、ウォルトンは、表象が、現実には、個体指示を行なうことがあるという点は認めている。例えば、モーツァルトの絵はモーツァルトという現実の個体を表象する。認めていないのは、それが表象にとって必須の機能であるということだ。これに反対するため、ウォルトンは、個体指示をまったく行なわない表象システムの論理的可能性に訴える。

なお、ウォルトン自身は、「ウォルトピア」という名称を使っていないが、ロペスがこの思考実験に出てくる共同体をWaltopiaと称していたのがおもしろかったので、この名称を採用する*3

ウォルトピアは次のような仮想の共同体だ。ウォルトピアの人々(ウォルトピアン)は、「人の絵」や「水牛の絵」を描くが、現実の個別の人を絵に描くこともないし、現実の個別の水牛を絵に描くこともない。おそらく、この共同体では、絵は、人や水牛の代用品として、祭祀などの目的のためだけに使用されるのだろう。ウォルトンによれば、ウォルトピアのような共同体が可能であることは、「述べるまでもないほど当然に思われる」らしい(p.244)。ウォルトピアでは、表象は個体指示を行なわない。従って、個体指示なしでも表象システムは存立する。

行為とのアナロジー

一方、ウォルトンは、性質への指示に反対するために、行為とのアナロジーをもちだす。こちらの議論は難しいので、やや丁寧めに説明する。

性質への指示は、〈個体に特定の性質を述定する〉作用、すなわち述語機能と捉えることができるだろう。例えば、「あれは白い犬だ」という発言において、「白い犬」という述語は、対象に〈白い犬〉という性質を帰属する機能をもつ。問題は、これと同じような述語機能が、表象一般に見出されるかどうかにある。

ひとまず、表象の例として、「白い犬の絵」を考えよう。グッドマンの表現を借りれば、この絵は対象を「白い犬として表象」する。あるいは「白い犬-絵」である。

一方、ウォルトンの意見は、「白い犬として表象」は、「白い犬」という述語と同じ機能を果たさないし、〈白い犬〉という性質の帰属ではないというものだ。ひとことで言えば、「として表象」は述語ではない。

おそらく、グッドマンのように、記号システム一般をモデルにするかぎり、として表象と、述語のちがいはわかりにくい。白い犬の絵は、「あれは白い犬だ」という発言と同じような形で、対象に〈白い犬〉という性質を帰属するように見えるだろう。少なくとも、グッドマンは、その点に特に疑問の余地を認めていないように思われる。

しかし、現実の個物を描いた絵ではなく、単に仮想の光景を描いた絵についても、これが成り立つかどうかはそれほど自明ではないだろう。少なくとも、ウォルトンが念頭に置いている典型的な表象は、現実の個物について情報を伝えるようなものではなく、仮想の作品世界を提示するものだという点に注意する必要がある。

ウォルトンは、表象芸術全般をフィクションのモデルで考えているため、表象芸術全般は、「何らかの命題・事態を、その作品の作品世界で真にする」という機能をもつものとされる。表象は、特定の命題を事実として伝えるのではなく、特定の命題を虚構的真にするものなのだ。

そして、ウォルトンは、行為とのアナロジーに訴えることで、〈命題を虚構的真にする〉機能と、述語機能のちがいを説明している。

なぜ行為とのアナロジーがもちだされるかと言うと、〈特定の命題を虚構的真にする〉という作用は、〈特定の命題を真にする〉という作用に類似したものだとされるからだ。行為は、まさにこの〈特定の命題を真する〉作用をもつ。特に制度的な行為を考えよう。例えばバスケットボール選手は、ボールをリングに通すことで、〈スコアを獲得する〉という命題を真にする。

しかしわれわれは、行為によって命題を真にすることを、性質の述定とは見なさないし、行為が述語機能をもつとも言わない。ボールをリングに通すことは〈スコアの獲得〉という性質の帰属ではない。従って、これと同様に考えれば、表象が命題を虚構的真にすることを、述語機能と見なす必要もない。

改めて書き出せば、以下のようになるだろう。

  1. 行為は、述語機能をもたない。
  2. 表象は、関連する点で、行為に似ている。
  3. よって、表象も述語機能をもたない。

*1:ウォルトン語の「表象」には特別な定義があるが、ここでは紹介しない。また、いずれにせよウォルトンの定義が捉えようとしている対象は、こでいう表象芸術だと言ってよいだろう。

*2:なお、グッドマンは「表象」を画像による描写に限定して使っているので、その点でも両者の語法はずれている。ただし、ウォルトンの批判は、「小説・映画・美術などは記号システムではない」というものだと思われるので、対立点自体は明確だと思われる。

*3:この思考実験はUnderstanding Picturesの4章で扱われている。この4章の議論もおもしろいので各自参照されたし。

グッドマンブックフェアの余白に

ブックフェアに余白ってあるんだろうか。

下記のブックフェアで、「芸術形式/芸術のメディア」の選書を担当させていただいた。

新しい古典がやってくる!『芸術の言語』刊行記念フェア「グッドマン・リターンズ」特設サイト| 企画:慶應義塾大学出版会 協力:勁草書房

選書した本に関連して、ブックフェア冊子に書いたこと以外を記す。

私の担当は最初「ポピュラーカルチャー」だったけど、グッドマンと関係なさすぎてあれだなと思ったので「芸術形式/芸術のメディア」という項目にさせてもらった。映画、マンガ、小説、絵画、ダンスなど、いろんな芸術形式や芸術のメディアに関する本を選んでみた。

選書のあれこれ

選書の際に意識した方針は、

  • (1)『芸術の言語』と一緒に読んでおもしろそうな本。特にメディアの特性に関係ある本にする。
  • (2)手に入りやすいものにする。
  • (3)なるべくいろんなメディアを入れる。
  • (4)ぴったりくる本がなければ古典・基本書にする。

マンガとか映画は歴史が浅いせいか、メディアの特性に関する本がたくさんあるんだけど、美術とか文学はちょっと選びにくかった。文学理論の教科書はあっても、「小説とはどういうメディアなのか」という本は見当らない。

入れなかった本

選書しているときにまだ出版されていなかったので入れなかったけれど、『マンガ視覚文化論』を入れてもよかった。この項目じゃない気もするけど、『社会にとって趣味とは何か』とか。

あとはグッドマンの弟子でもあるチョムスキーを入れるべきだって言ってたんだけど、入らなくてそこは残念だった。

形式言語理論の祖はチョムスキーで、チョムスキーがどこからそのアイデアを学んだかというとおそらくグッドマンとクワインなので、『白と黒のとびら』とか入れてもよかったなあと思ったり。

バザン『映画とは何か』

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映画論・映画批評の古典。最近岩波文庫で出ている。選書に際してはじめて読んだけど、予想以上におもしろかった。

グッドマンとの直接的なつながりは薄いが、この本は、分析美学の議論ともつながりがある。分析美学の世界で有名な「写真のインデックス性」という議論は、本書の最初に入っている「写真映像の存在論」が元ネタといってよいものだろう。分析美学における写真のインデックス性の議論の出発点は、ウォルトンTransparent Picturesだが、ウォルトンは明らかにバザンを念頭に置いている*1

バザンは、ふわっとした感覚的な表現で写真のリアリズムを強調しているが、ウォルトンの論文は、この立場の明確化を試みたものだと言えそうだ。こんな風に「批評家がふわっとした形で言ったことをもっと明確に言い直してみる」というチャレンジは、分析美学という分野では、重要なアイデアの源泉だと思う。リアリズムの話以外だと、西部劇論などもおもしろいよ。

あとついでに言うと、本書の訳者解説でも指摘されているように、ロラン・バルトの有名な写真論(『明るい部屋』)もバザンの影響を受けている。バルトも写真のインデックス性みたいなことを言ってるんだけど、実はその背景にあるのは、ウォルトンもバルトもバザンを読んでるからなんだなというのは今回はじめて気がついた。

『マンガと映画』

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今回たまたまマンガ関係が多くなってしまったのだけど、これは文字通りメディウムスペシフィシティ(メディアの特性)を明示的に扱った著作。分析美学では、ノエル・キャロルのメディウムスペシフィシティ批判が有名なのだけど、本書はその辺の議論も紹介している。

ちなみに本書は後半の方がおもしろいので、読んでない人は後半まで読んでみることをおすすめする。趣味もあるかもしれないが、個人的には前半の理論的整理があまりピンとこなかったのに対し、後半の「マンガの時間性」などを軸にした作品分析は非常におもしろかった。

文体練習

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なんか小説とか入れたいなと思っていれた。おもしろいし、非常にグッドマン的なので読んだことない人はぜひ。

他にどんな本を選んだか

書店に足を運んで見てほしいが、いくつか並べておく。

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*1:バザンの論文をエピグラフに引用しているし、論文の冒頭で、写真のリアリズムを強調した人たちとしてあげられているのはまずバザンである。

Sacha Golob, ハイデガーの主張論

Sacha Golob, Heidegger on Assertion, Method and Metaphysics - PhilPapers

Golob, Sacha (2015). Heidegger on Assertion, Method and Metaphysics. European Journal of Philosophy 23 (4):878-908.

目次

  1. 論争の用語を定義
  2. (A)のいくつかの問題
  3. 「Carman-Wrathallモデル」 (A*)をBで説明
  4. (A)についての新しい「方法論的」説明
  5. (B)のステータス: 志向性、内容、文法

たまたま読んだ。なかなかおもしろかった。

ハイデガーは、主張Aussage(ないし判断)を、事物的存在者(手前存在)に深く関連するものと見なしている。しかし、両者の関係は正確にどのようなものなのか。

「手前存在」というのは、おおまかには、哲学史上で「実体subject」と呼ばれるものに、ハイデガーがつけた変な名前にあたる。著者によれば、(1)「実体」にくわえて、(2)時空間や因果的性質で個別化されるモノ、(3)道具的・社会的関係から切り離されたものとしての事物という、だいたい3つのイミで使用されているらしい。

主張と手前存在の関係について、よくある解釈は以下のようなものだ。

命題的志向性は、対象を文脈から切り離し、手前存在として志向する。

対象を(主張の)命題的志向性によって志向することは、文脈依存的な知覚や実践とのつながりを切断し、孤立した対象として切り縮めることになる。著者はこれをCarman-Wrathallモデルと呼んでいるが、もともとはドレイファスなどがこの解釈らしい。

しかし、著者によれば、これがハイデガーの立場であるということはありそうにない。著者はさまざまな難点をあげているが、そもそもハイデガーの著作の中には、この解釈で前提されているような、ゆたかで文脈依存的な知覚的世界についての記述はほとんどない。

かわりに著者は以下のような解釈を提案する。

命題的志向性に対する、ある種の哲学的分析は、対象を文脈から切り離し、手前存在として志向する。

ハイデガーは、主張の命題的志向性そのものではなく、それに対する特定の哲学的分析を批判しているという解釈だ。ここで特定の哲学的分析というのは、現存在の分析という形をとらない分析を指す。もっと言うと、現存在の社会的文脈において主張が果たす役割の分析以外の形をとった分析を指す。哲学者が、主張の行為としての側面を無視し、個物に対する性質の述定という側面だけに注目したとき、対象は手前存在として現れてくる。

感想

ハイデガーは、いくつかの箇所では、単純に「手前存在というタイプの存在者もあるよ」と言ってるように見えるので、その点で著者の解釈は微妙かなと思った。もし、ハイデガーの立場が著者のいうようなものなのであれば、「手前存在などない」と言ってほしいように思う。

それとも、電子を理論的存在者と見なす哲学者のように、手前存在を、理論に依存した存在者だと考えていたという話なのだろうか。それならちょっとわかる。そういう風に考えていいなら、以下のようにシンプルに整理できていい感じじゃないかと思うんだけど。

  • 手前存在(事物) = 理論的判断に依存する存在者
  • 手元存在(道具) = 実践的判断・行為に依存する存在者