Our Stories: Essays on Life, Death, and Free Will
- 作者: John Martin Fischer
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Txt)
- 発売日: 2011/01/14
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-- まえおき --
人生の意味に対する関心
「人生の意味」とは何か?
われわれはしばしば「人生の意味」を問題にする
ex. 「タフでなければ生きられない、優しくなければ生きてる意味がない」
If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.
人生に対するこうした理解は、人生自体が持つ価値を問題にしていると考えられる。人生は、単に生きられるだけではなく、われわれにとっての意義・重要性をもっている。
人生の内で享受される価値と、人生自体が持つ価値の関係は、福利論にとって重要かつ興味深い問題である。
さらに、古典的には、哲学とはまず善き生き方を教えるものである。現在でも、「人生哲学」のようなジャンルが成立していることは、善き生の探求こそ哲学であるという理解が人口に膾炙していることをしめしているだろう。
すなわち、人生の意味の探求は、哲学内在的な理由でも、実践的にも、歴史的にも重要であり、哲学に期待されている事柄でもある。
参考: 福利論用語集
- 福利well-being
- 厚生welfare
- 効用utility
- 深慮的価値prudential value
ほぼすべて同じ意味であり、個人にとっての価値を指す。
もっともわかりやすい日常用語で言えば「幸福」。
「厚生」や「効用」は福利の内、主観的なもののみを指す語として用いられることもある。
幸福とは何か?
「享受される幸福」「達成としての幸福」という二種類の幸福が区別されるべきである。
- 享受される幸福
- よいことを体験する
- 自覚的
- 時間の幅を持った体験
- 集計的(一定期間内にえられた幸福は、各時点の幸福の総和)
- ex. 平和な生活を楽しむ、遊園地を堪能する、おいしい食事を楽しむ
- 達成としての幸福
- よい事柄を達成する
- 自覚的とはかぎらない / 死後達成されることもある
- 達成はしばしば瞬間であり、時間の幅を持たないこともある。
- 集計的ではない(達成A,B,CをABCの順で行なった場合と、CBAの順で行なった場合)
- ex. 偉大な科学的発見について理解する、類まれな能力を発揮する、偉大な作品を制作する
幸福・福利といえば、前者が主な対象でありつづけてきたが、福利をすべて体験に還元することについては疑問も残る
ex. 経験機械の事例
MATRIXの中での幸福な経験は、本当に人を幸福にするか?
「プロスポーツ選手になりたい」
われわれはプロスポーツ選手になったかのような体験を望んでいるわけではなく、端的にプロスポーツ選手になることを望む
人生の意味:
快だけでつくされない福利の一側面
意味ある人生は、幸福な経験ばかりを含むとはかぎらないが、達成を含んでいる
個人的立場
「意味」の意味
- 「朝食を抜くのはダイエットには意味がない」
- 「この本は、父のプレゼントなので、わたしにとって意味がある」
- 「人生の意味」における「意味」の用法はこれらに似ている
- 手段、外在的価値としての意味
- ただし、人生のなかの個々の行為とは異なり、人生全体を評価する際の「目的」はそれに応じた特殊なものである
- 典型的には、神や人類普遍の理想などといった個々人の人生を超えた大きな目標がそれだろう
- われわれが「誰某の人生には意味があったか」と問うとき、誰某自身やわれわれがコミットしている目標に照らして、誰某の人生を一種の手段として評価する
- 「人生の意味」はいわゆる幸福とは異なっており、「意味がなくて幸福な人生」も「意味があって不幸な人生」もある
- 「人生の意味がない」は「死んでもよい」を意味しない。むしろ大半の人生は意味がないが、生きる価値のあるものだろうと思う
--ここからFischerの論文について---
道徳的的責任とは何か?
...There are various plausible ways...
立場を決定する必要はないが、ストローソン的立場をとりたい。
xは行為Fに対して道徳的に責任がある iff xは行為Fに対する応答的態度の適切な対象である
応答的態度: 賞賛、非難、感謝など
責任概念の適用条件
...But under what conditions...
- 認識論的条件
- 自由関与的条件
無知と強制によって自発的行為ではなくなる
責任がないケースの代表例: 「知らなかった」「仕方がなかった」
フランクファートケース
...I offer plausibility arguments...
...In my view, the moral of...
自由関与的条件の理解が重要
責任についての古典的理解:
他行為可能性は、責任の必要条件である
多くの選択肢の中から、1つの選択肢を選んだ場合のみ、行為に責任が伴なう
=> フランクファートはこの説に対する反例を提示した
=> 古典的理解では、他行為可能性の有無は、認識から独立した問題だったが、「他の選択肢がない」ことが行為の理由であった場合のみ責任がなくなることをしめした。
=> 今は邦訳が読めます。『自由と行為の哲学』春秋社
例えば、私が太郎を殺すことを計画しているとする。ここでさらに、私による太郎の殺害を確実なものとしようと企む悪の科学者がいるとしよう。この科学者は私の頭に小さな機械を埋め込む。この科学者は、この機械を通じて私の心の動きをモニタリングしており、私が太郎を殺さない判断を下したことを知るやいなや、この機械を通して私を操って太郎を殺させる。しかし、私が太郎を殺そうとする決意が揺るがないかぎり、科学者は私に何もしない。
さて、こうした状況で、私が何の迷いもなく太郎を殺したとしよう。この場合は、科学者は機械を通じて私の行為を観察していただけであって、一切行為に介入していない。このとき、常識的な判断に従うならば、私は、明らかに太郎を殺害したことについて道徳的責任を負うように思われる。
しかし、標準的分析に従うならば、私は太郎を殺害したことについて責任を負わないことになる。なぜなら、私は、どのような決断を下したにせよ太郎を殺していたのであり、私が太郎を殺さないという選択肢はまったくなかったから。しかし、これは、私が太郎を殺した責任を負うという常識的判断と食い違う。こうした理由から、標準的な責任概念の分析には、重大な問題があるとフランクファートは論じる。
http://socio-logic.jp/gojo01_suzuki.php
規則的コントロール[regulative control]と誘導的コントロール[guidance control]
責任の自由関与的条件は、誘導的コントロールだけで十分。
規則的コントロール:
他行為可能性が必要条件。
行為fが存在しない、または別の形で存在することもありえた。
規則的コントロールがなされる際、結果は行為に対してセンシティブである。
行為fが存在しなければ、結果eはなかっただろう
ex. わたしが引き金をひかなければ、太郎は死ななかっただろう
決定論と(少なくとも見かけ上)矛盾する。
誘導的コントロール:
他行為可能性は必要ない。
センシティブでなくても、誘導的コントロールは行なえる。
決定論と両立する。
誘導的コントロールとは
...Especially with my co-author...
# この辺はあまり解説がなくてほとんどわかりませんでしたが、別の論文も参照しつつまとめます
# "Precis of Responsibility and Control", "Responsibility and Inevitabiity"
誘導的コントロールの2要素
- 1.メカニズムの所有
- 2.理由反応的である
メカニズム: 行為を生じさせた機構。通常の実践的推論でもよいし、電子機器のようなものが介在してもよい
所有: それらのメカニズムは行為者自身のものでなければならない
# Fischerはこの「所有」について、主観的条件(行為者がメカニズムを自分のものと考える証拠をもっている)を採用している
理由反応的: 行為を生じさせたメカニズムは、同じ理由のもとで別様に行為することが可能でなければならない
# 行為者と理由が存在し、かつ行為が別様である近隣の可能世界が存在する
責任の価値
...Finally, I have suggested...
# Fischer, "Responsibility and Self-Expression"も参照した。
自由に行為すること、責任をもつことの価値は自己表現の価値である。
芸術的自己表現は、センシティブではない。
1: 太郎が殺さなければ、次郎は生きていただろう
1が偽であった場合(太郎が殺さなくても、次郎は生きていなかった)、太郎の行為は世界に違いをもたらさないという意味で重要ではない。深慮的価値や合理性の意味では、太郎の行為には意義がない。にもかかわらず太郎の責任は免除されないことがありえる。
2: 太郎がつくらなければ、この彫刻は存在しなかっただろう
2が偽であった場合(太郎がつくらなくても、この彫刻は存在した)でも、太郎が彫刻を制作したことには自己表現の価値がある。
自由に行為することは、いかなる意味で自己表現なのか?
自由に行為することは、人生という物語の構成要素である。
II. 自由と価値の多様性: 提案
物語としての人生
...I believe that...
- 自由な行為を「芸術的」自己表現として理解する
- なぜわれわれはこの種の自己表現を価値付けるのか
- 人生の意味と関係する
...As I said above...
- 人生はストーリーであり物語
- 物語は、単なる出来事のクロニクルではない
- 物語的説明によってえられる特殊な「理解」が物語の重要な構成要素
- 人生は、価値の物語的次元をもつ。
- 物語は、各出来事の福利の総和にとどまらない価値をもつ
- 物語的な一連の出来事の価値は、個々の出来事の価値だけではなく、個々の出来事の関係に依存する
人生a: 人生の前半が絶頂期であり、そこから下落していく
人生b: 前半の艱難辛苦をのりこえたあと、しだいによくなっていく
価値の総和がひとしいとしても人生bの方がのぞましい?
人生の物語構造が、人生総体の価値に影響する
# 疑問: これは人生の意味なのか?
# 人生が持つ価値の物語的次元が、単に「構造をもった出来事は、個々の出来事の総和だけではない福利をもつ」というだけの話であれば、人生の意味とは関係ない
人生と自己表現
...When I act freely, I write a sentence...
...Thus, When I act freely, I am...
...Of course, a work of art...
人生は物語的な説明の要素を含み、物語的価値の次元を含む
定義上物語は芸術作品であるから、私は芸術家であり、自由な行為の価値は芸術的自己表現の価値である
芸術的自己表現の価値 = 美的価値ではない
ex. 芸術的自己表現によって人生が豊かになる
自由に行為することは自己表現だが、その産物である人生は第一義に美的観点から評価されるわけではない。
人生は第一義には、深慮的・道徳的観点から評価される。
彫刻などの芸術作品も美的観点からだけ評価されるわけではない。
- ex. 環境に配慮しているか、搾取に加担しているか
しかし、芸術作品は第一義には美的に評価される
人生は美的にも評価される
...A life, or a life-story...
...I take it that...
...Although we certainly...
人生は様々な次元によって評価されるが、美的に評価されることもありえる。
ex. 陸上選手が「遅く引退しすぎた」「早く引退しすぎた」
cf. ジェームズ・ディーン効果
Ben Bradley, "Well-being and Death"
ジェームズ・ディーンは俳優としての全盛期に若くして死んだ。
実際のジェームズ・ディーンの人生と、ジェームズ・ディーンが全盛期になくならず、全盛期よりは劣るがほどほどの幸福な生活をつづけたという架空の人生を比較する。福利の総和という意味ではあきらかに後者の方が上だが、多くの人は、全盛期になくなったジェームズ・ディーンの人生の方をより好ましい人生と考える。
誘導的コントロールと自己表現
...It is perhaps not...
自由に行為すること - 芸術的自己表現 - メカニズムの所有
所有は特殊な自己関係であり、自己表現と関係する
人生 - 深慮的・道徳的評価 - 理由応答性
人生は、理由に応答するものであり、道徳と深慮の観点から評価される
III. 含意と洗練
III.1 歴史的物語
批判: 「物語」は芸術作品とはかぎらない
...I have contended that...
家族や宗教の歴史は、Fischerが指摘した特徴を持つが、芸術作品とは言わないし、それを制作することを芸術的活動とも言わないし、その価値を芸術的価値とも言わない
歴史記述と物語の区別
...Note however that such narratives...
歴史記述は、まず正確さによって評価される
「以前の失敗から学んだ」「努力の結果成功した」というのは記述それ自体の価値ではない
価値の物語的次元は、歴史記述それ自体とは別のところにある
こうした特徴が価値を付与するのは、人生それ自体であって、物語ではない
物語の書き手ではなく、人生それ自体に価値が付与される
ジョブズの人生に価値があるのであって、ジョブズの伝記制作者に価値があるわけではない
III.2 美学的誤謬
...My point is that...
Fischerが主張したいのは
- S「自由な行為が芸術的自己表現であるという事実から、その産物である人生の主要な評価のモードが美的なものであるということは帰結しない」
という弱い主張である。
Sの論拠: 評価は目的駆動的であり、目的は複数である。評価のモードが唯一ではない以上、制作行為の本質によって制作物の評価のモードが決まるはずがない。
ただし実際に、自由な行為が本質的に芸術的自己表現である一方、その産物である人生の主要な評価のモードは美的ではないという議論はできていない。
「自由な行為が芸術的自己表現であるという事実から、その産物である人生の主要な評価のモードが美的なものであることが帰結する」という誤謬を美学的誤謬と呼ぼう。
「人生はまず美的に評価されるべきだ」という見解はしばしばニーチェに帰属される。
しかしニーチェやその他の解説者が上記の(誤った帰結という)誤謬をおかしているかどうかはわからない。
III.3 妥当な物語を制限する
...The purpose-relativeity of...
説明の目的相対性+目的が複数あることより、人生には単一の/固定された/所与の意味があるという観念は挑戦を受ける。
人生は異なる次元異なる目的に応じて評価される。
「自由に行為することで人生という物語に一文を書きくわえる」という主張は、唯一の物語があると示唆しているように見える。
しかしこれはまちがい。
複数の視点、複数の解釈がある。
...Just as I do not...
特権的目的、特権的視点は存在しない。
「自由に行為することで人生という物語に一文を書きくわえる」のではなく、妥当な物語を制限するだけ。
多様な解釈が依然として可能であるが、われわれの行動が妥当な解釈を制限する。
...Now perhaps this is...
これはがっかりするようなことかもしれないが、謙虚で現実的。
「トータルコントロール」は不可能。
複数の視点が、われわれの行動を複数に解釈し、「アプリオリに」「特定のコンテキストから離れて」特権的な視点が存在しないことは、道徳的責任の基礎となるより謙虚で現実的なコントロールの概念(誘導的コントロール)と並行している。
III.4 人生と芸術作品
...I have argued that...
人生がストーリーとして理解できるとして、なぜ詩や戯曲や他の種類の芸術作品であるとは考えないのか?
詩や戯曲や音楽は長編小説や短編小説同様にストーリーを語ることができる。
詩や戯曲や音楽や長編小説や短編小説はストーリーを語る方法であり、ストーリーの「乗り物」である。
人生もまた、行動や身体の動きのシークエンスとして見なされた場合、ストーリーを語る方法と考えられる。
厳密には人生はストーリーではなく、ストーリーを語る方法である。
さらに厳密には、許容される物語的内容を制限する方法である。
...This point is similar...
人生は物語的内容の乗り物であるということは、文が内容の乗り物であるという観念と似ている。
乗り物の性質と、内容自体は区別すべき。
「自由に行為することで人生という物語に一文を書きくわえる」は単なる比喩というだけではない。
文が内容の乗り物であるように、行動はわれわれのストーリーを語る乗り物である。
...Even if we say...
詩と物語は似ている。
詩の本質はよくわからないが、表現のエコノミーと関係ある。
ある種の人生は、その優美さにおいて詩に似ている。
IV. 結論
...Perhaps following Nietzsche...
自由に行為するとき、われわれは芸術的自己表現をしている。
しかしその産物は典型的には、道徳的・深慮的に評価される。
道徳的・深慮的に評価される芸術作品を制作することは、芸術的活動のなかでもとりわけ重要である。
自己表現の価値は、その産物が道徳的・深慮的に評価されることで高められ、産物の価値は特別な芸術的活動に由来することで高められる。
人生の意味は、美学、道徳、深慮の共通部分。
...I think there...
リチャード・テイラー「人間の生の意味」
巨大な穴を掘ることに残りの人生を費すことになると仮定する。
もしそれをたのしむことができれば安心だろう。
もしそうしたいという強い欲望を以前よりもっていたのだとすれば自分から掘りにいくだろう。
創造性はわれわれを神のごときものにする。
チザムは行為者を(法則から逸脱するという意味で)神のごときものと考えた。
しかしわれわれは無から創造するとか、因果のネットワークを逸脱するとか、世界に違いをもたらすから神のごときものであるわけではなく、芸術的自己表現によって創造的であるからこそ、神のごときものなのである。
おまけ: 人生のむなしさ
束の間の流行のむなしさ
束の間の流行は、わずかな時間しか価値をもたないがゆえにむなしい
- (1)わずかな時間しか価値を持たないものはむなしい
- (2)束の間の流行は、わずかな時間じか価値を持たない
- 結論: 束の間の流行はむなしい
人生のむなしさI
- (1)ある観点において、わずかな時間しか価値を持たないものはむなしい
- (2)長期的な観点において、人生は、わずかな時間じか価値を持たない
- 結論: 人生はむなしい
(1)はおそらく妥当ではない。(1)を認めるとほとんどのものがむなしくなる。
人生が価値を持つ期間の長さをLとしよう。多くの場合、われわれにとって身近な観点において、Lは、わずかな時間ではない。
むなしいかどうかの判断は、「われわれにとって身近な観点」で評価される。
※「われわれにとって身近な観点」とは、われわれが人の活動を評価するとき、通常採用するような観点のこと。
人生のむなしさII
- (1)x がむなしくないならば、
- (1a)ある観点cにおいて、x は長い時間価値を持つのでなければならない
- (1b)観点cにおいて評価することが適切であるという理由があるのでなければならない
- (2)人生について(1a)(1b)を満たす観点は存在しない
- 結論: 人生はむなしい
(2)について、「われわれにとって身近な観点」は人生を評価する観点としては適切ではない。
特定のプロジェクトがわれわれの目的にとって意味をもつかどうかを評価するならば、数年、数十年、数百年のタイムスパンで評価することがふさわしいだろう。しかしそうした観点を採用することが適切であるのは、人生の中の特定の目的に役立つからである。
人生自体を評価する際に、人生の中の特定の目的に役立つという理由に基いて評価の観点を選択するならば、人生に対する評価自体は正当化されないだろう。野球内在的な評価の方法を用いて、野球それ自体を評価することが、野球の正当化に役立たないのと同様である。
人生自体が価値を持つかを評価する際、数年、数十年、数百年のタイムスパンで評価することを正当化する理由が特にないように思われる。