以上のようなことを考えていたため、「道徳的錯覚」に関心をもった。「道徳的錯覚」という言葉があるかどうかは知らないが、それこそ視覚における錯視のように「多くの人がまちがえやすい(が、説明されればすぐまちがいだと気がつく)」タイプの道徳的推論の事例があればおもしろいなと。
わたしががんばって思いつくのは、この郵便配達の事例くらいだが、探せばもっといろいろありそうである。
たとえば単純な話、道徳に関して、「道徳的に正しいことというのは、人々がそうすべきだと考えていることである」みたいな一番素朴な規約説は道徳について錯覚のケースが存在するのであれば、それだけでも十分反例になるように思われる。なぜなら「道徳的錯覚」は、多くの人が正しいと考えるにもかかわらず正しくないこと(あるいは、多くの人がまちがっていると考えるにもかかわらずまちがってないこと)だからである。あるいは、高階の規約説みたいなもの(「道徳的に正しいことというのは、人々がそうすべきだと多くの人が思っていると思われていることである」)もこれが反例になる*。なぜなら、道徳的錯覚について、「この錯覚によって、これが道徳的に正しいと考えてしまう人も多いんだろうな」と思うことは十分にありえるが、道徳的錯覚というのは、それでもまちがっているものだからである。少なくとも、「多くの人がまちがえるだろう」と考えることと、「これは錯覚である」と考えることは、別に矛盾しないように思われる。
* そういうことを言っている社会学者がいたような……。