Timothy Williamson「哲学におけるモデル構築」

www.academia.edu http://www.philosophy.ox.ac.uk/__data/assets/pdf_file/0008/38393/Blackford.pdf [to appear in Russell Blackford and Damien Broderick (eds.), Philosophy’s Future: The Problem of Philosophical Progress. Oxford: Wiley]

academia.eduにあがっていたので読んだ。哲学の発展に関するアンソロジーに載る予定のものらしい。今日は世界哲学の日らしいのでちょうどいいかと思った。

科学哲学におけるモデルの考え方を哲学にも適用したらどうかという内容だった。

モデルとは何か? ここでは自然科学、社会科学におけるモデルを考えている。

  • モデルは仮説的な例であり、事例のタイプである。モデルは、個別的な事例を指ししめすことではなく、明示的で一般的な記述によって与えられる。例えば、捕食者・餌の人口比を微分方程式で記述したものはモデルだが、特定のキツネとウサギの群れについて書いたものはモデルではない。
  • モデルはしばしば真ではない。例えば摩擦のない滑車はないが、モデルとしては有効。
  • モデルは現実の複雑な現象に対する単純化を含んでおり、現実の複雑な現象より、数学的に扱いやすくなっていたりする。

なぜ偽なモデルによって現実の知識をえられるのかという疑問もありえるが、モデルが現実を十分近似していれば、モデルから現実の知識をえることもできるし、自然科学や社会科学はそうやって発展してきた。多くの場合、モデルがどれくらい現実に近いか、モデルからえた帰結を現実にどれくらい適用できるかの把握には、経験が必要。

哲学は多くの場合、例外のない一般的な必要条件や十分条件を与え、その反例を与えるということをしてきたのでモデル構築の発想にあまりなじみがない。反例を与えるのは伝統的哲学者の本能だが、モデルに対して反例を与えるのはまったく意味がない(モデルはそもそも偽であるのが前提)。

しかし哲学でもモデルは使われている。例えば、認識論、特に形式認識論におけるクジの事例や、言語哲学における可能世界意味論はそうだ。自然言語の論理形式を発見するというラッセル、フレーゲウィトゲンシュタインの試みはモデル構築ではなかった。しかしカルナップは意識的にモデル構築をやったし、これが可能世界意味論につながった。

モデル構築は唯一の方法でもないし、主要な方法でもないかもしれないが、少なくとも便利なので、哲学者はもっとモデル構築に取り組んでもいいし、モデル構築について反省的に把握すべき。