Peter Lamarque「フィクショナルキャラクターの作り方」

Work and Object: Explorations in the Metaphysics of ArtWork and Object: Explorations in the Metaphysics of Art


http://oxfordindex.oup.com/view/10.1093/acprof:oso/9780199577460.003.0009

  • 1. 問題
  • 2. 形而上学とキャラクターの同一性
  • 3. 関心に相対的な同一性
  • 4. キャラクターと個別化
  • 5. 文学的次元

フィクショナルキャラクターは「作られたタイプ[initiated type]」であるという見解を擁護している。
「作られたタイプ」はおそらくレヴィンソンの音楽作品の存在論などからとっていると思うのだが、抽象的な性質の集まりであり、その意味でタイプであるが、本質的にある歴史的文脈のもとで作られたという側面を持っている。例えば、音楽楽曲の場合、楽曲は抽象的な音構造だが、ある時代にある人によって作られたものとしてのあり方を持っている。例えば私たちは、その音構造を、「ロマン派の楽曲に影響された」などの形で見る。
フィクショナルキャラクターもこれに似ていて、基本的には性質の集まりだが、作られたものでもある。
また、キャラクターは関心に相対的な同一性を持つ。Lamarqueによると、例えば「ならず者」は多くの民話にあらわれるキャラクターである。民話の研究者にとってはこれらはすべて「ならず者」という共通のキャラクターである。このように、フィクショナルキャラクターは関心に応じてさまざまな粒度の同一性を持つ。
…ということらしいんだけど、あまり納得がいかない。


Lamarqueは「探偵役」のようなキャラクタータイプと「ホームズ」のようなキャラクターには程度の差しかないと言うのだが、その二つを混同することなどまずないし、もっと絶対的な差があるように思える。たとえば複数の作品に共通するホームズが「同じ」キャラクターであるというときは、普通に人が同じ人であるときに期待されること、つまりホームズは記憶や人間関係やその他もろもろを共有することが期待される。しかし、それと同じようなことがタイプにはほとんど期待できないように思う。どうもLamarqueはキャラクターはタイプだという定義をしてしまったせいで、キャラクタータイプとキャラクターを区別できなくなってるように見えるんだけど、これはフィクショナルキャラクターはタイプであるという説の欠陥じゃないかな。


あとフィクショナルキャラクターと呼べるものができるためには、最低限作品の中で個別化されていることが必要という話が出てきて、これは納得した。例えば「100万人の群集がいた」と書いてあっても100万人キャラクターをつくったことにはならなくて、一応書き分けがないといけない。