Aaron Smuts「愛の規範的理由パート2」

http://philpapers.org/rec/SMUNRF-2
Smuts, Aaron (2014). Normative Reasons for Love, Part II. Philosophy Compass 9 (8):518-526.

パート1は愛の定義みたいな話だったので飛ばしてパート2だけ読んだ。
「愛に理由はいらない」という理由無し説(No-Reasons View)を擁護している。

  • パート2の序文
  • 愛の正当化
    • 内在的性質に基づく正当化
    • 関係的性質に基づく正当化
    • 理由無し説
  • 結論


問題は愛に規範的理由があるかどうか。もっと言うと愛は正当化できるかどうか。愛による不公平は正当化できるかみたいな、愛全般の正当化みたいな議論もあるが、そういうことではなく、個別の愛を正当化する理由があるかどうかが問題になっている。
Smutsは、まず普通の利己的価値(深慮的価値)によって特定の誰かを愛することを正当化することはできないという。例えば「この人を愛すると幸せになれる」とかではだめらしい。なぜかというと、愛は定義上非利己的な関心を要求するからだ。Smutsは、理由がある態度を正当化するとき、その態度は理由反応的(その理由によって生じた)ものでなければならないとしている。しかし、自分の利益になるから誰かを非利己的に愛するということは矛盾しているという。
# ここはつっこみどころあると思うが、まあ普通に考えて「健康にいいから愛します」とかは愛の正当化にはなってない気もする。


前半では、内在的性質(かっこいいとかやさしいとか)は愛の理由になりえるかということが議論される。
しかしこれは愛の対象の交換不可能性に反する。
単純にかっこいいとかやさしいということであれば、おそらくよりかっこいい人やよりやさしい人がいるだろう。もしかっこいいとかやさしいとかが愛を正当化するならば、よりかっこいい人やよりやさしい人に対する愛はより正当化される。しかしそういう場合にさっさと乗り換えるというのは、普通に愛に期待されることではない。
また、内在的性質が愛を正当化するならば、愛する人とそっくりなクローンを愛することも正当化されるはずだが、Smutsはこれも問題があるという。例えばあなたの愛する人があなたではなくクローンを抱きしめていたら、あなたの立場からすると、それはあなたは愛されていないということになる。従って、内在的性質は愛を正当化する理由を与えない。


次により洗練された立場として、恋人たちの共有された歴史が愛の理由を与えるという立場がある。この立場では、単純にかっこいいとかやさしいとかではなく、価値ある関係が愛を正当化する。共有された歴史が愛の場合に重要なことは確かなので、この説はその辺をうまく捉えた説だ。
# ここで参照されているKolodonyのLove as valuing a relationshipは私も以前読んだが非常におもしろい論文だった。
# http://philpapers.org/rec/KOLLAV


しかしこの立場では、どれくらい長い歴史を考慮すればいいのかが問題になる。もし歴史全体だとすれば、過去とてもよいものだった関係が悪くなっても別れるべきではないことになるかもしれない。これは問題があるし、もし最近のことだけを考えればよいのであれば、結局よりよい関係を築けそうな相手に乗り換えた方がいいということになる。また、この説は愛のはじまりについては何の正当化も与えない。
# この辺反論としてうまくいってるのかどうかちょっと微妙な感じがする。


もっと問題なのは、関係の価値って結局何という部分だ。ありそうなのは「恋人たちに利益を与える関係」という答えだが、これでは結局自己利益によって愛を正当化しているのと変わらなくなってしまう。Smutsによれば、愛することで自分たちが幸福になるから、誰かをその人自身のために愛するということは矛盾している。


一方Smuts自身の立場は理由なし説だ。よく言われるように恋に落ちるのに理由は必要ない。
また、親の子に対する愛は理由がないことが普通だ。恋愛の場合も同じように考えてよいのではないか。

感想

愛のはじまりは理由なしで別にいいような気もする。それは多分関係説の支持者も認めるのではないか。
ただやっぱり愛を持続する理由に関しては、関係説は結構いい線いっているように思う。
Smutsの関係説に対する批判「関係が愛を正当化するってどういうことなのかもっと説明しろ」というのは確かにそうなのだが、関係説の側にたってもっと擁護することもできそうに思った。例えば、人生の意味みたいに物語としての価値に訴えてもいいんじゃないか。
あとどうでもいいけど、おそらく英語にはない「愛」と「恋」の区別だが、愛の哲学の文献を読んでいると「これって要するに恋と愛の区別だな」というものがたまに出てくる(Smutsは「情動としての愛」と「関係としての愛」を区別するが、これも恋と愛の区別に近い)。なので恋と愛の区別も大事だなと思った。