実在論対反実在論という対立がよくわかっていないので、読んで調べる。
ダメットは実在論対反実在論というよくある対立を、数学の哲学におけるプラトニズムと直観主義の対立をもとに捉え直すよう提案している。ダメットの提案は、実在論対反実在論の対立を、「存在に関する対立」(ex. 普遍者は存在するか)であるとか、「還元可能性に関する対立」(物に関する言明はセンスデータに関する言明に翻訳できるか)として理解するのはやめたらどうかというものだ。
ダメットの提案は、さまざまな実在論対反実在論の対立を、統一的に扱えるようなフレームを考えようぜというものなので、ここではさまざまな実在論対反実在論の論争が登場する。
例.
- 普遍者に関する反実在論: 普遍者はない。
- 物的対象に関する反実在論: 物的対象に関する言明はセンスデータに関する言明に還元される。
- 道徳的事実に関する反実在論: 道徳的な客観的事実はない。
- 過去・未来に関する反実在論: 過去・未来に関する端的な事実はない。
- 心に関する反実在論: 心に関する客観的な事実はない。
ダメットは最終的に、反実在論を以下のように定式化する(邦訳p.124)。
数学の場合とそれ以外でちょっとちがうので二つにわける。
- 間接的証拠が存在しない場合(数学など)
- 問題の領域(ex. 数学)の言明が真でありうるのは、私たちがその証拠(ex. 証明)をもつことによってのみだ。
- 間接的証拠が存在する場合(心に関する事実など)
- 問題の領域(ex. 性格に関する語り)の言明が真でありうるのは、私たちがその直接的ないし間接的証拠(ex. ふるまいの観察)をもつことによってのみだ。
気持ちとしては、要するに実在的な領域では、何かが端的に真である。一方実在的でない領域では、端的に真であるということはなく、事実とされるものは、別の領域の証拠なり何なりがあることによって真であると。
これは還元ではないので、問題の領域の言明が何から何まで証拠に関する言明に翻訳されるとかは要求されていない。また、問題の領域の言明をいちいち還元クラスの言明として理解する必要もない。
これは一見すると証拠に関する基礎付け(grounding)のような関係に訴えているように思われる。ダメットの定式化はストレートに読めば、以下のようなものに思われるからだ。
さまざまな領域Fについて、Fに関する反実在論とは以下を認める立場である。
[Virtue] F領域の言明が真であるのは、私たちがその証拠をもつことによる。
[Grounding] F領域の言明が真であることは、私たちがその証拠をもつことによって基礎づけられる。
ただ、実際にはダメットはさらに一歩進んで、反実在論を、問題の領域で、二値原理が成り立たない(つまり問題の領域には真でも偽でもない言明がある)という立場として理解しようとしている。ここはちょっと個人的には理解につまずくところで、なぜかというと上の[Virtue]ないし[Grounding]と、二値原理の成否にはギャップがあるように思われるからだ。
ここは以下のような事情があるのかもしれない。
- 「いや、真理が証拠によって基礎づけられるなら、証拠も反証もえられないケースも普通に考えればあるんだから二値原理は成り立たないでしょう」という前提がある。
- 基礎づけとは何かがよくわからないので、他のもっと明確に定義できる要素を使いたい。
そうだとすると、ダメットの立場が「反実在論が正しければ問題の領域で二値原理が成り立つことはありそうにない」なのか「ありえない」なのかは解釈に悩む。
追記
山田竹志さんが批判記事を書いてくれたのでリンクしておきます。
ダメット「実在論」(1963)について - researchmap