Velleman, J. David (2013). Doables. Philosophical Explorations (1):1-16.
哲学者のベルマンがエスノメソドロジーを大いに参照している。タイトルはdo + ableの造語。『概念分析の社会学2』が出るそうなので副読論文として読むとよいかもしれない。
以下の著作にも載っている。
Foundations for Moral Relativism
さて、ここでは、だいたい以下のような話がなされている。
- 遂行できる行為のレパートリーは、行為者や周りの人の理解可能性に依存する。
- 行為者や周りの人の理解可能性は、その人たちが持っている概念に依存する。
- 人がもっている概念は、文化によって異なる。
- よって、遂行できる行為のレパートリーは、文化によって異なる。
ちなみにベルマンの元々の目的は、道徳相対主義を擁護することであり、ここでは道徳相対主義(道徳的に正しい行為は文化によって異なる)の基礎として、遂行できる行為が文化によって異なるという話をしている。
エスノメソドロジーは、1や2を示すために参照されている。ベルマン自身例をあげながら、ハーヴェイ・サックスの言う「普通であることをすること」がどれだけ多くの微細な相互作用を含んでいるかを説明しているが、ここはなかなかおもしろい(以下の例はp.9)。
次のような状況を考えよう。あなたが虚空をみつめていたら、そこに人の顔があることに気づいたとしよう。うっかり知らない人に、その人のことをみつめていると思われてしまった。その人をみつめていたわけではないことをなんとか伝えないといけない。そもそもその人のことなど見てもいなかったのだが、その人が、自分のことをみつめていると思ったところは見たので、それまでは見ていなかったということを何とか伝えないといけない。
相手はその人が何かをしたせいで、あなたの注意を引こうとしていると思われてしまったと考えるかもしれない。その場合は、誘導されて見ることはみつめることではないので、相手はあなたが見つめていたとは考えない。相手が、自分のことしか気にしていないのに誤解されたと考えた場合、その人はあなたがみつめているstareのではなく、注目しているwatchと思うだろう。この場合、その人は自分自身の足をじっと見ているところを見せ、このこと以外何も見せようとはしていないのだと伝えようとするだろう。
ベルマンによると、ニューヨークの地下鉄ではこういうことがよく起きるのだが、これが成り立つためには、「見つめる」とか「注目する」とかいった見ることの概念区分が共有されていなければならない。ニューヨークの地下鉄の普通のふるまいは、多くの概念区分によって成り立っている。
ベルマンの立場は素朴な文化相対主義に見える部分もあるのだが(もちろん素朴だからまちがっているということにはならないが)*1、上記のような繊細な行為の例は新鮮だ。ベルマンがあげている例は、哲学者が典型的な行為の例としてあげるものよりも、幅が広く、目が細かい。「必要に迫られるまで邪魔しないこと」のような、あまり主体的な行為ではないものも含んでいるし、「単にBすること」と「AでなくBすること」が区別されるような細かいものになっている。