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Galen Strawson「物語性に反対」

物語的な自己とか、物語的な人生とかいらんやろという論文。ちなみこの人は日常言語学派の有名なP.F.ストローソンではなく、その息子。
http://philpapers.org/rec/STRAN
Strawson, Galen (2004). Against narrativity. Ratio 17 (4):428-452.


節タイトルは勝手につけた。7節が存在しないように見えるのだが、誤植かな。

  • 1. 序
  • 2. 人間としての同一性と自己経験の同一性
  • 3. 通時的な人とエピソード的な人
  • 4. 通時的、エピソード的、物語的
  • 5. 物語的人生
  • 6. 物語性とは何か
  • 8. 改訂
  • 9. 立場の分類
  • 10. 潜在的に物語的?
  • 11. エピソード的人生

いろんな分野で、人は人生を物語として生きるみたいな話が流行ってますね。ストローソンは、物語に関するこの手の主張を二種類にわける。

心理学的物語テーゼ
人は自分の人生を物語として生きる。
倫理的物語テーゼ
人生を物語として経験することは良いことだ。

どちらも間違っている。多くの人は物語と無関係に生きているし、物語と無関係な素晴らしい生がある。ただ一部の物語的な人が自分の生き方を他人に押し付けているだけじゃないか。
ストローソンはまず通時的な人とエピソード的な人を分ける。エピソード的な人は、自己というものが過去も存在し、未来も存在するものだとは感じない。通時的な人は、自己を過去も未来も存在するものとして捉える。
ストローソンは自分自身が比較的エピソード的な人の例だという。ストローソンはもちろん記憶を持っているし、記憶にあるのが自分と同一の人間であることを理解している。しかし人間としての同一性と、精神的内的な自己の同一性は違う。ストローソンは後者の意味では、遠い過去や未来に自己が存在するようには感じない。過去を内的な視点で思い出すこともできるが、それでもそれが自己であるとは感じないし、ほとんど興味もひかれない。ましてやそこに物語を見出したりはしない。エピソード的/通時的という区別は、非物語的/物語的という区別とイコールではないが、エピソード的な人の多くは、物語的ではない。
ストローソンは他にエピソード的な人の例として、モンテーニュ、シャフツベリー、ヴァージニア・ウルフボルヘスボブ・ディランなどをあげている。
エピソード的な人はことさら一貫した自己を意識しないだけなので、別に過去の経験から学習できないわけでもないし、倫理的でないわけでもない。


一方、ストローソンは物語的な人の要素として、通時的であることの他に、経験の中に一貫した形式を見出す傾向や、ストーリーを語る傾向、記憶の改訂をあげている(どれも必要十分条件というわけではないが)。
しかしどの要素をとってみても、すべての人に当てはまるようなものではないし、倫理的であったり、良く生きるために必要なものでもない。ストローソンはすべて自分には当てはまらないという。また、記憶の改訂などはむしろ欠陥と見なされうるだろう。
物語的な人生の支持者たちは、非物語的な生き方を欠陥と見なしたがる。場合によっては人であることの条件にそれを入れさえする(ストローソンは、この定義だと私は人でないことになるが…などと皮肉っぽく書いている)。しかし非物語的な生き方はハッピーゴーラッキーだし深いし何の問題もない。


感想:
私もどちらかというとエピソード的な人間なので個人的には共感する。「自己である感じ」みたいなのが何を意味するのかもう少し分析してほしいけど、他の本に書いてあるかな。
先日読んだKauppinenは、人生に一貫性がないと過去の経験が無駄になったという後悔が起きるだろうと書いていたが、ストローソンが言うように、そもそもそんなことを考える習慣がなく、ハッピーゴーラッキーな人もいるだろうな。
(Kauppinenが言うのは「後悔すべき状態になる」ということかもしれないが、それにしても想定している人生が狭すぎるように思う)。