Peter Lasersohn「相対的真理、話し手のコミットメント、暗黙の引数のコントロール」

http://philpapers.org/rec/LASRTS
Lasersohn, Peter (2009). Relative truth, speaker commitment, and control of implicit arguments. Synthese 166 (2):359 - 374.

相対主義による趣味述語の意味論のやつ。

目次

  • 1. 序: 相対主義と誤りなき不同意
  • 2. 初歩的な相対主義の意味論
  • 3. スタンスを採用する
  • 4. 態度とスタンス
  • 5. 非相対主義的意味論における態度とスタンス
  • 6. 事実的構築、内容、話し手のコミットメント
  • 7. 真理評価的副詞
  • 8. 要約と結論

以下のような「個人的趣味」に関する文の意味論について。

  • 納豆はおいしい
  • ジェットコースターはたのしい

文脈主義者はこれを一種の指標詞のように扱う。文脈主義によれば、「納豆はおいしい」は「納豆は私にとっておいしい」、「ジェットコースターはたのしい」は「ジェットコースターは私にとってたのしい」といった意味だ。これらの文は使用する人によって異なる内容を表現する。
一方相対主義者は、趣味や人を評価環境におく。「納豆はおいしい」は太郎に関して真であるが、次郎に関しては偽である。文は使用する人によって異なる内容を表現しない。人に関して異なる真理値をもつだけだ。
Lasersohnは相対主義をとる。


Lasersohnはいくつかのスタンスを区別している。

自己中心的スタンス[autocentoric]
人の発言を評価するのであれ、自分の発言の真理を考慮するのであれ、自分が受け手であろうと偶然盗み聞きしたのであろうと、自分の観点から真偽を評価する。例えば、納豆が私にとっておいしいのであれば、「納豆はおいしい」は誰に使われても真である。「納豆はおいしくない」は偽である。自己中心的スタンスは、趣味述語を評価するデフォルトの方法である。しかし唯一の方法ではない。
脱中心的スタンス[acentrig]
いかなる特定の観点にも立たず、趣味に関する議論に関わらない。このスタンスをとるとき、「納豆はおいしい」は真偽をもたない。
他者中心的スタンス[exocentric]
自分自身以外の誰かを評価の基準に置くパターン。著者はこれが起きる状況として、いくつかの例をあげているが、おもしろいのは普通の主張でも、個別的な出来事の事例ではこれが起きるという。「マリーは昨日ジェットコースターに乗った。これは楽しかった」。マリーがジェットコースターに乗ったという個別の出来事がマリー以外の誰かにとって楽しかったということは普通ありえないので、この場合マリーを基準にするのがデフォルトの解釈になる。あと、これはマクファーレンがあげていた例だが、犬のドッグフードを選ぶときに、「このドッグフードはおいしい」と言うことがある。しかしこれは当然自己中心的スタンスではない。


この論文では、「信じる」「知っている」などの志向的態度動詞と趣味述語の組み合わせが扱われる。

  • 「ジョンはジェットコースターが楽しいと信じている」
  • 「メアリーは納豆がおいしいと信じている」

これらの真理条件はスタンスに依存する。ジョンは息子のビルとジェットコースターに乗っていて、まったくつまらないのだが、ビルが楽しそうにしているのを見ているとき、ジョンは他者中心的スタンスで、ジェットコースターが楽しいと信じているかもしれない。
また、著者は自己中心的スタンスとともに使われる動詞として「見なす[consider]」をあげている。ここで言う「見なす」は、曖昧な述語や主観的述語と一緒につかわれるもので、例えば「ジョンはボブは背が高いと見なしている」は言えるけど「ジョンはボブの身長が173.13cmであると見なしている」は変。
一方、「ジョンはジェットコースターは楽しいと見なしている」は、つねに自己中心的になる。息子のビルが楽しそうであっても、ジョン自身がジェットコースターに退屈していれば、「ジョンはジェットコースターは楽しいと見なしている」は偽になる。


著者による文脈主義への反論のひとつめはこの「見なす」を使うもの。文脈主義の言うように「楽しい」が趣味の基準となる引数を持つとすると、「見なす」の補語の「楽しい」は、文の主語を暗黙の引数として取っていることになる。「見なす」は主語の位置でない引数をコントロールするコントロール動詞だってことになるけどほんとにそんなことあるの?と。


もうひとつは、事実的な態度動詞に関わるもの。
「ジョンは納豆がおいしいと知っている」「ジョンは納豆がおいしいと気づいた」のような事実的な態度報告文を考えよう。
趣味述語を事実的態度報告の中に埋め込んだ場合、ジョンが納豆をおいしいと思っていることにくわえ、話し手も納豆がおいしいと認めているという含意がある。
「ジョンは納豆がおいしいと信じている」はジョンの趣味についてしか言ってないが、「ジョンは納豆がおいしいと知っている」と報告する人は、自分でも納豆を好んでそうだ。



この現象は相対主義だと自然に予測されるが、文脈主義からは予測されない。
「ジョンは納豆がおいしいと知っている」は事実的なので、「ジョンは納豆がおいしいと信じている」にくわえて、「納豆はおいしい」を含意する。
前者はジョンのコミットメントを含意する。
趣味述語のデフォルトの解釈が自己中心的スタンスだとすると、後者は話し手のコミットメントを含意する。
文脈主義だと、どちらかだけにならないとおかしい。